ちっぽけな自分が、それでも世界中を巡った。
それはきっと、一人ではかなわなかったことで。
ふと思い付いて。
すっかりくたびれた、けれどまだまだ現役でちゃんと使われているそれを、ルークは荷物の中から引っ張り出した。まじまじ見たなら今まで気付かなかったいくつかを発見した。たとえば誰かが飲みものをこぼしたあと、たとえば何度も破れてそのたびにはり合わせたあと。たとえば誰かの字で書き込みがあって、たとえば彼自身で書いたこともちゃんとそこには残っていて。
すごいな、とぐるりと見て大きく息を吐き出した。
地図――場所を示すその紙には、旅のあとが、彼らの過去がくっきりとそこにある。
「……ルーク? まだ起きていたの」
「ん、そろそろ寝ようと思ってた。すげーな、いつの間にかおれたちって世界中巡ってたんだ」
ほの明かりに入ってきた彼女に、ルークは小さく笑う。
夜更かしはだめよ、なんて腰に手を当てた彼女、切れ長の目がふと動いて、そして笑みのかたちに細くなったのがなんだか嬉しい。広げた地図、そこにある街にあるいはダンジョンの書き込みに一つひとつ指をのせれば。やさしい目がそれを追う、たったそれだけがなんだか嬉しい。
「アルビオールを手に入れてから、格段に世界が身近になったわね。わたし、前は、本物の海さえ知らなかったけれど」
「おれなんて生まれてからずっと、バチカルのあの狭い屋敷から出たことなかったぜ」
「……あのお屋敷……どう考えても狭くは、ないと思うわ」
バチカルがここ、最初に飛ばされたタタル渓谷がここで、乗合馬車で一度はグランコクマを目指して、途中でエンゲーブに進路を変えて……。
他愛のない言葉を交わしながら、巡った土地を、巡った順番に指でたどっていく、なぞっていく。今はもう存在しない街を押さえるときは指がふるえたけれど、同じ地図を覗き込んでいるティアに果たしてそれはばれずにすんだだろうか。
あるいは全部ばれていて、それでも知らないふりをしてくれているのだろうか。
最初にこの地図を手にしたときは、世界のすべてが載っているこの紙切れがちっぽけで、そのくせ途方もなく大きかった。いつか世界のすべてを巡った今、けれどきっと本当の意味で自分は世界の広さを知っている。
あるいは、知ったつもりになっている。
今思えば本当に狭いあの屋敷の中、軟禁されていたなんてそれさえもきっといいわけで、その中でただ生きていたほんの数ヶ月前までの自分の鼻先にこれを突きつけてやりたい、と心底思う。そのうちおまえはこれ全部巡るんだぞ、だらけてないでもっとちゃんとしろよ、などとかなうものなら自分を叱り飛ばしてやりたいとさえ思う。
――あるいはそれは、あのころの自分に対するアッシュの目と、ひょっとしたら同じなのかもしれない。
――本当にどうしようもないあのころの自分だったから、そんな風にしみじみ思う。
「すっげえよな、世界って本当に広くて、本当はすごくせまいんだ」
「徒歩でこれ全部回ったならそうかもしれないけど、違うでしょう? せまいなんてないわよ。それにただ通り過ぎただけの場所の方が圧倒的に多いわけだし、」
「でも、これ全部巡ったって考えれば、それってすごいことじゃねーか」
言葉がいまいち伝わらない感覚にもどかしくなって、どうしたら思っているすべてをティアに伝えられるのだろうと考える。必死になっているのはどうやら彼だけで、ひょっとしてティアは全部分かっていて、その上で彼をからかっているのかもしれないけれど。
ただ、伝えたかった。
ちっぽけな自分が、それでも世界中を巡った。
あるいは格好つけていうなら、それは「奇跡」なのかもしれない。それくらい彼にとってすごいことなのだ、と。
ちっぽけな自分が、それでも世界中を巡った。
それはきっと、一人ではかなわなかったことで。
それは仲間が――彼女がそばに、いてくれたからで。それにとても感謝しているのだ、と。
ティアに本当に感謝しているのだと。
「世界……か。本当に、せまくて広いよな」
「広いわよ、とても広いわ。普通なら世界のすべてを巡るなんて一生をかけてもとてもできないんだもの」
――伝わっているのだろうか、伝わっていてほしい、伝わってくれれば良いと思う。
彼女の言葉に、期待をしてしまう。ひょっとして全部分かってくれているのではないか、なんて。言葉を尽くしてもいないくせに、努力していないくせについ調子よく願ってしまう。
――ありがとう。
あの日あのとき、たとえ偶然でも。彼を世界に連れ出してくれて。あのときから今までずっと、ちっぽけな自分を見捨てずにいてくれて。こんなに情けない自分をちゃんと見守ってくれて。
一緒に世界を巡ってくれて。
言葉なんかではもの足りない、この大きな気持ちを。全部全部ティアに分かってもらえたらと思う。この気持ちが丸ごと全部伝われば良いと思う。この地図のようにかたちにして残したいわけではないけれど。かたちではない漠然なすべてが、彼女に伝わってくれたらと思う。
本当に思う。どこまでも願う――それはあるいは、祈るように。
「……夜更かしはいけないんだったよな。うん、もう寝るわおれ」
「それがいいわ。――おやすみなさい」
「おやすみ」
――出逢ってくれて、ありがとう。
声に出したらきっと陳腐な言葉を、背を向けて口の中でつぶやいた。元通り地図をたたんでしまっているうちにティアはどこかにいなくなって、それに気付いたのでもう一度だけしまったばかりのそれを引っ張り出してみる。
真っ先に目に付いたのは、旅の出発点のあの渓谷。
そしてルークは、ただ口元だけで微笑む。
