降る雨が頬を伝って。
それがまるで涙のように見えた。
戦闘が終わって、けれど動こうとしない彼にティアはそっと近付いた。たとえば怪我をしたとか多分そういう理由ではなく、うつむいたまままるで動こうとしない彼にどうやら仲間たちは気付いていない。
「……ルーク?」
ささやくように小さく声をかけたなら、びくりと跳ねるように上がった顔。どうしたの、と彼女が声をかける前に無理やりに浮かぶ弱々しい笑み。
手にした、血にぬれた剣をひどく重いもののようにさばいて、何でもないの言葉のかわりにゆっくり向いたどこか丸い背。足を引きずるように歩いていく彼の後ろ姿を見送って、そこに残ったのは彼女と、先ほどまで生きて敵として向かってきた人間の――なれのはて。
何かの感情が浮かぶ前に、ティアもならってそれに背を向ける。
人を傷付けることに躊躇することは、美徳だと思う。
揶揄でも何でもなくティアはそう思う。自身は兵士として生きてきて、敵を「処理」することにもはやすべての感情を殺すすべを身に付けてはいるけれど、それは他者に同じように望むべきものではないと思う。望まない自分でありたいと思う。
旅の毎日もだいぶ長くなってきた今、それでも人を殺すことを毎回躊躇う彼は。
だから決して揶揄ではなく、いっそうらやましいとさえ思う。
やがて雨が降りはじめて。まるで天が何かを嘆くようなしとしとした雨に、けれど周囲に雨宿りできそうなものは見当たらなくて。仕方がないから先を急ぐことにして。
その雨煙の向こう、駆け寄ってきた賊らしい人影に。
ぎくりと身体を強張らせたルークを、決して情けないだとかそういった風には思わない。
「ルーク!」
「わーってる……! くそ、連続かよっ!!」
吐き捨てて、先ほど鞘にしまわれたばかりの刀身が現れて。かまえる動きに隙はなくて、斬りつけるたびにその直前かすかにまごつく気配はあるものの、この程度の敵相手ならそれは気にするほどのことでもない。
思って、思うのはそこまででティアも戦闘に集中する。譜歌で杖でナイフで、他者の生命を容赦なく奪う。
もう、どれほどの人を殺したのか分からない。
どれほどの他者の人生を奪ってきたのか分からない。
それが一人二人増えたところで大したことはないと言ってしまうことができるくらいには、自分のこの手は血にぬれてきた。多分この先もずっとずっとこの血の量は増えていく。きっとかわく暇もない。
そうだ、自分は兵士として生きる道を選んだ時に、すべての覚悟をすませた。
けれど――では、彼は……?
「そっち行ったぞ!」
「っ、く、……!?」
苦しい息にはっと顔を上げたなら、別に体勢を崩したとか苦戦しているとかではない、けれど悲痛に顔をしかめた彼がいた。躊躇ったように一回だけ剣を合わせて、けれど悩みを振り払うように強く首をふると剣を突き出すように深く踏み込む。
質の悪い鎧ごと、彼の剣は相手の心臓を貫いて。
きっと苦しまなかったはずだ、相手の動きがふつりと止まる。
その一瞬見えてしまった、まるで泣き出しそうな彼の顔がティアの脳裏に焼き付く。
襲いかかってきたすべてが動かなくなるころには、雨脚はだいぶ強くなっていた。傷の手当てもすべて後回しに、向こうに樹があるぜという言葉に駆け出していった仲間たちの中、彼だけが先ほどのようにまたぽつんと立ち尽くしている。
ひどくうなだれて、ふと首を強く振ってはけれどまたうなだれて。
ゆっくり歩み寄ったティアがその脇に立っても、彼女の存在にまるで気付いていないように。血にぬれた剣を力なく手に下げたまま、刀身を汚す血がほとんどすべて雨に洗い流されても動かない。
「……行けよ、ティア。ぬれるぜ」
「もう今さらよ、急ごうが急ぐまいが大差ないわ。ルーク、あなたは行かないの?」
「行くさ。……こんなところで立ち止まってる場合じゃねぇんだ」
また首を振る、雨粒が飛ぶ。雨はけれど降り続くから、そんなことですべてがはね飛ぶわけはない。
そして降る雨が頬を伝って。
それがまるで涙のように見えた。
多分何よりきれいに見えるそれからなんとか目を逸らして、
「…………」
何を言おうと思ったのか、口が動いて声は出なくて、
けれど彼はなぜかひとつうなずいて。
今でもなお、戦いに、人を傷つけることに躊躇する彼をただまぶしく思った。
そうしてゆっくり歩き出した彼の横を、血まみれの彼女もゆっくりと行く。
