かあっと頭に血が上って。
何を言おうというのかしようというのか、自分の身体がまるで思うように動かない。
鏡窟内は薄暗くて、視界が悪ければ足場もあまり良くなかった。
あ、なんて声が聞こえて、振り返ったなら想像どおりそれはナタリアの上げたもので、足をすべらせたのか姿勢がおかしかったのにあわてて手をのばして引き上げる。
一息吐いてふと顔を上げたなら、驚いたような顔が予想よりも間近で。
思わず突き飛ばすように、つかんでいた手首をはなしていた。
――おい! もっとやさしくしてやれよ!
――るっせぇ黙ってろクズ!!
自分でもまずいと思った、そのタイミングで頭の中にもう一人の人格が声を上げる。いらいらと脳内に怒鳴り返しながら彼女を盗み見る。
大丈夫だ。表情は少し暗いけれど、どうやらどこも怪我はしていない。
「あの、アッシュ、」
「――行くぞ」
きっと礼の言葉をぶっきらぼうに遮って、またくるりと踵を返す。やぁ、若いですねえ、やら、こんのひねくれモノー、やら。そんな外野は聞こえていたけれど、全部さっぱり無視をする。
再び頭の中に響いた声も。
――もっとやさしくしてやれよ、ナタリアに! あいつ、ずっとずっとおれに、約束を思い出せって、まず真っ先にそれを思い出せってずっと、
――黙ってろと言っただろうが!
もちろんそれは彼にしか聞こえない声で、まさかぶつぶつひとりごとをする姿を誰にも見せるつもりなんてなかったから、ずんずん先を急ぎながら脳内にがなり散らす。
まったくうるさいことこの上ない。――彼の意識を連れてきたのはアッシュ自身だったけれど、こんなことなら放っておけば良かったかもなとふと思ってみたりもする。
……それとも今すぐに、このうるさいだけの意識を追い払ってしまおうか。
一応、目論見のためにはそれを実行するわけにもいかなかったけれど。ふと思ってみればどうやらそれが伝わったようで、一瞬意識は怯んだ。それに少しだけ溜飲を下げて、彼は背後の気配をまたそっとさぐってみる。
癖のある金髪までしょんぼりと、鏡窟を、彼の歩いたあとをきれいにたどってくる彼女。あのころのままきっとまっすぐに成長したその姿は、今の彼の目にただまぶしい。
言われるまでもなく、やさしくしてやりたいと思うし、約束は一度たりとも忘れたことはなかった。
けれどまっすぐそれを示すには、今の彼は複雑すぎて。
――二言目には思い出せ思い出せって、うぜえってずっと思ってきたけど、今なら分かるんだ。ナタリアはおれじゃなくて、ずっとおまえを待ってたんだから。
――黙ってろと、
――おまえは! おまえの居場所は確かにおれが奪っちまったけど!! それがどんな感じか少しならおれにも想像できるけど、きっとナタリアだってすごくつらかったんだ! 分かってやれよ、おれには無理だったけどおまえならできるだろ?
――……っ!!
――黙れっておまえは言うけど、おれは黙らないからなっ! おまえが知らなくておれが知ってるナタリアを全部教えてやる!!
――どんな嫌がらせだてめえは!?
――おれはおまえでおまえはおれの被験者なんだろ。だったら分かれよ、アッシュ。
分からない、分かりたくない、そう思う一方で、言われなくても分かっている、分かりたい、とも思う。分裂している心を突きつけられるのはひどく複雑な気分で、それが自分の劣化レプリカからだと思えばそれはいっそ不快なほど複雑だった。
複雑な彼の心を知ってか知らずか、黙ってしまった彼に調子付いて頭の中の声はいかにも思い付くままとりとめのない思い出話に入っていて。
あの時どこでこういうことがあってナタリアはああだった、なんて聞く話はまるである種の惚気話を聞くようだった。それも片方は自分の想い人で、片方は宿敵。
――嫌がらせというよりも、むしろ何かの拷問のようだ。
深くため息を吐く。こらちゃんと聞けよと頭の中の声が、声だけのくせに唇を尖らせる。
……これだから過保護に育てられたおぼっちゃんは。なんで俺が、この俺が。おまえなんかの言葉をすべて聞かなければならないんだ。
思うのに、それはきっと当然のはずなのに。ふと足が鈍って止まって、彼の背後を歩いていたナタリアがそんな彼の背にぶつかって。
「ご、ごめんなさいアッシュ……わたくし少し、考えごとを、」
「……おまえのせいじゃねぇよ」
「やれやれ、ようやくの休憩ですか。確かに先は急ぎますけれど、六神将はやはり体力が違うといいますか、他人のことにかまけてなどくれないというか」
「大佐ー、年寄りじみたこと言わないで下さいよぅ。大佐だって現役の軍人で、体力オバケじゃないですかぁ」
……まあそのふたつの声はまたも無視することにして。
振り返る。胸元に手を握るナタリアはまるで何かを祈るようで、あるいは彼に何かを期待しているようで、彼の一挙手一投足に注目しているようで。頭の中にさんざんわめいていた彼ではない人格の声は、今はなぜだかまるでなくなっていて。
多分自分がいちばん還りたがっていたのは、彼女の横だったのだろうと思った。今だから思う、認める。居場所を奪われて悔しかった気持ちよりも、彼女の隣を失くしてしまった自分が淋しかったのだと、その瞬間なぜだか強く思った。
不意に悟って、それがなんだか面白くなくて、それなのにすとんとどこかフに落ちた感じがして。
絶対に、彼の中のもうひとりにそれを知られたくないなんて、この期に及んでそんなひねくれたことを思ってしまって。思うことで思考を逸らそうとする自分がいて。
「……アッシュ……?」
聞き慣れない自分の名前。そう名乗るようになってもうだいぶ経つのに、昔の名前はもう棄てたはずなのに、彼女の口から出たならまるで違う風に聞こえる男の名前。自分で拒絶したくせに、いつかまた彼女が自分を、自分の昔の名前で呼んでくれたらなんて、虫のいい願いが首をもたげる。
そしてかあっと頭に血が上って。
何を言おうというのかしようというのか、自分の身体がまるで思うように動かない。
そんなつもりはないのに手がのびる。
彼女の頬に、触れそうになる。
