その声は甘く甘く、どこまでも心地良く。
彼の中にしみ込み、彼の中に同化する。

―― voix douce

「アッシュ、わたくしは、」
「……なんだ」
勢い込んで何か話しかけてきたのに、ことさら冷たい目を向ける。案の定そこで言葉を切ったナタリアが、何ごとかを言おうと、けれどそれを躊躇うようにうろうろと視線をさまよわせて。
とうとう言い出してしまう前にと、アッシュはそんな彼女に背を向けた。
「アッシュ!」
「用がないなら話しかけるな。……時間の無駄だ」
自分の時間など、彼女のためにならいくらでもさく。彼女に関わることに無駄なんて、きっと彼にはひとつもない。けれど彼女は。彼女にとって自分はそもそもすでに存在しないはずの人間で、そんな自分にかまけさせることで彼女の時間をつぶしたくはない。
言わなければ多分伝わらないその思いは、言わなかったから案の定彼女に伝わらなかったようで。
「そう、ですね……すみません」
うなだれたその姿は、彼の胸にずきりと痛みを走らせる。

◇◆◇◆◇◆

大切な大切な大切な人。
ものごころついたときには当たり前のようにかたわらにいて、まるで自分の一部のようだった人。けれど彼女は自分ではない別の人間で、だから誰より大事にしなければならない人。
当時、幼かった彼にとっては。大人になったら自分がこの国を治めるようになるということ。大人になったら彼女が自分の伴侶になるということ。その二つはひっくり返るはずのない「絶対」だった。
七年前のあの日に、その「絶対」は覆されてしまったけれど。彼の世界はまるで正反対に変貌を遂げたけれど。彼女が大切な存在だということは、彼をかたちづくるきっと一番深い深い場所に組み込まれたまま動いていない。動くはずがない「絶対」のままだった。
そして大切だからこそ。変わってしまった自分は、変わらないままの彼女になるべく関わるべきではなかった。彼女のルークは七年前のあの日に死んで、自分はどこまでも聖なる焔の燃えかすで、だから彼女に関わるべきではなかった。

◇◆◇◆◇◆

冷たい言葉を吐けば、それで彼女が哀しむ姿を見れば、胸はずきずき痛むけれど。それでも彼女の人生に燃えかすの自分が関わることで、その黄金を曇らせてしまうことだけは、
「……時間の無駄になりますから、これはひとりごとですわ」
思考を、彼女の声が分断する。背後から、彼に届く声で彼女の「独白」が聞こえてくる。聞くべきではないと彼の中の何かが告げていて、けれど聞きたいと彼の中の何かが叫んでいて、それでも今すぐそれを止めさせるべきだと彼の中の何かが、

「アッシュ、――いえ「ルーク」。わたくしはあなたが好きですわ。あのころと変わらず、いえ、もっともっと深く。あなたを愛しています」

「!?」
ぎょっと勢い振り向いたなら、凛とした笑顔。正しいのは自分だと絶対の自信に満ち溢れた、一国の王の笑み。誰より美しいひとの何より美しい笑顔。
「何を、」
「あら、今のはひとりごとですのよ。わたくしが今想っていることを、声に出してみただけ。うっかりどなたかに届いてしまっても、想いをその方に届けたかったわけではありませんの。ただ、想ったことを口にしてみただけですわ」
しゃあしゃあと言ってのける彼女の姿に、現在彼女と一緒に旅をしている、特に二人の顔が重なってその二人に殺意が湧いた。そうすることで思考を散じようとして、けれど先ほどの声がぐるぐると彼の頭の中にこだまする。頭の芯が赤く熱した鉄になってしまったように、熱くて白くて赤くて何も考えられない。
大切な大切な大切な彼女が、道を誤ろうとしているのに。それを諌めることも正すことも、そんな余裕が彼の中にはまるでない。

その声は甘く甘く、どこまでも心地良く。
彼の中にしみ込み、彼の中に同化する。
許されない、他の誰が許しても彼が許さないその言葉が。
彼の中にしみ込んで、どうしようもない激流がわきあがる。

◇◆◇◆◇◆

「――一国の王女が軽々しく口にすべき言葉ではなかったようだが」
――今、何よりも今この瞬間。かなうなら「ルーク」でありたかった。
「そうですわね。けれど今ここにはわたくしともうひとりしかいませんし、うっかり聞いてしまったその方さえ黙っていてくれたなら、先ほどのわたくしのひとりごとはなかったことになりますわ」
――燃えかすのこの心にわきあがり、渦を巻く想いを。行動に出すことができたならどんなに良かっただろう、態度に示すことが許されるならどんなに良かっただろう。
「そんな考え方は感心しない、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディア王女」
――凛々しく自信に満ちた美しいこの女性を、抱き寄せることができる自分だったならどんなに良かっただろう。
「ええ、わたくしもそんな考え方をするわたくしにびっくりしていますの。……普段のわたくしは、一体どこに行ってしまったのでしょう」
――深く深く深く、彼女を抱き寄せ包み込むことのできる自分でありたかった。
「他人ごとのように言うな、おまえは、」
――今だけでも「ルーク」でありたかった。燃えかすではない彼女の焔でありたかった。

「でも、わたくしあなたを愛していますもの」

◇◆◇◆◇◆

ぴくりと動きかけた腕を、ふらりと体重のかけ方を変えようとする身体を、意地と意志を総動員して押さえ込む。ゆるみかけた顔に、意識して眉間に力を込めて仏頂面を深くする。
凛々しく自信に満ちた、この美しい笑顔に相応しいのは自分ではないのだから。
彼の中の聖なる焔は、あの日確かに死んだのだから。
――だからこの甘い声は、彼に届いてはならない。

大切な大切な大切な人。
ずっとずっと死ぬまで一緒にいたかった、彼女のルークでありたかった。この手で彼女を幸せにしたかった。
それは彼の中の「絶対」で。

けれど、――もう叶わない。

―― End ――
2006/07/15UP
アッシュ×ナタリア
OFP
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voix douce
[最終修正 - 2024/06/27-10:08]