彼は彼女の特別だった。
今までも、そしてこれからも。
弱った心を励ました彼が朝焼けの中に立ち去って、ナタリアはいつの間にか止めていた息を深く吐き出した。彼が隣にいた間中痛いくらいに高鳴っていた心臓が、今こうしてふと気が付いたならなんだかずいぶんおとなしくなっている。もやがかかっていたようだった思考が、今ははっきりと澄み渡っている。
きっと確実に、彼の言葉のおかげだと思う。
思って、凪いだ心にゆっくり頬をゆるめてみる。
――あの約束は、おまえだから交わした。
偽者の王女だといわれ、事実父と慕っていたインゴベルト王と血縁関係はなく、けれど自分は今まで王女として生きてきた。偽者という言葉がたとえ事実でも王女以外の生き方を知らない。けれどこの身にキムラスカ・ランバルディア王家の血が流れていないのはどうやら事実で、だったら自分は、
胸に重いもやとなってうずまっていた考えを、彼の言葉はあっけなく打ち砕いてくれた。泥沼の思考に出口を見つけてくれた。黒く暗く塗りつぶされていたナタリアの心を、白く明るく照らし出してくれた。
苛烈なまでの、まっすぐな目でまっすぐな言葉で。
思い返したなら、いつだってそうだった。
彼は彼女をいつも助けてくれる。本当に困っているとき、本当に助けを求めるときにだけ、一番望んでいるかたちで手をさしのべてくれる。
甘やかしてはくれない、全身もたれかからせてはくれない。誰かにすがらなければ生きられない彼女なら、きっととっくの昔に見限られていた。やさしいだけの彼だったなら、彼女はきっと彼を愛したりはしなかった。
そして、まるでその厳しさのかわりというように。
彼女が自力で立っている限り彼は彼女を決して見捨てることはなく、ひとりではどうにもならないときにはちゃんとあたたかい手を差し出してくれる。重い荷を肩代わりしてはくれないけれど、一緒に支えてくれる。
それはまるで彼女の心を読んでいるように、まったく彼女の望むとおりに。
彼女が彼に対してそうでありたいと望むのと、それはまったく同じように。
父に否定されて、哀しかった。
王女ではないと知って、目の前が真っ暗になった。
そして次の瞬間には、では彼は誰とあの約束を交わしたのかと。浮かんだ疑問は冷たくこごえる剣になって、ナタリアの心をずたずたに斬り裂いた。
王位継承権第三位の彼が、王女のナタリアと交わした約束。彼が公爵家嫡男でなかったら、彼女がキムラスカ・ランバルディア王女でなかったら、きっと交わされなかった約束。
今までずっとずっと目標にしてきたそれは、
では彼女が王女でなかったなら……?
今まで自分は王女だった。自分が王女だということは息をするよりも自然なことで、彼と将来結婚するということは同じくらいに当たり前で、約束は果たされるものだった。
根本が否定されて、世界がひっくり返って彼女が揺らがないはずがなかった。
仲間の誰もが彼女を気づかってくれたけれど、彼女の揺らぎを本当の意味で理解してくれるだろう存在は、たぶん彼以外にいなかった。
王女として扱われ続け、王女として生きてきた自分。
王女としてしかものごとを見ることができない、考えることができない、民を民としか思うことができずただそれを守ろうとしか考えられない自分。
けれど本当の王女ではなかった自分。
彼は、一体誰と約束を交わしたのか。
恐ろしい疑問はあっけなく否定された。王女ではなくナタリアと約束を交わしたのだと彼は言ってくれた。揺らぎのないまっすぐな目は彼女をまるで貫くようだった、うそも同情もそこに入る隙はなかった。
安堵と喜びは何度でも彼女にため息を吐かせる。もう見えない後ろ姿から、けれどなかなか目をはなすことができない。
「……アッシュ」
――あなたが今ここにいてくれたなら。
――これからもずっとずっと、このかたわらにいてくれたなら。
――自分が彼のそばにいることを、ずっとそばにいることをもしも許してくれたなら。
かなうはずのない欲深い自分の望みに呆れて、頬はきっとまだゆるんだまま、彼女は仲間たちが止まる宿に足を向けた。
仲間たちにもう大丈夫だと告げよう、一緒にバチカルに向かってくださいと頼もう、父王に――インゴベルト陛下に謁見しよう説得しよう。なすべきことをなそう。
本物の王女ではなくても、王女として生きてきて王女以外に生きられない彼女を。
彼は、全部丸ごと認めてくれたから。
彼は彼女の特別だった。
今までも、そしてこれからも。
だから彼女は彼の特別でありたいと。
思いながら凛々しく誇らしく、朝焼けに彼女の笑みが広がる。
