彼女は哀しんでくれるだろうか、泣いてくれるだろうか。
想像しようとして、けれど。
彼はそのかわりにかすかに口の両端を持ち上げてみた。

―― coeur vertueux

「……あとは……たの、む……」
それは、その声は弱々しくて途切れがちで、まるで自分の口から出たものとは思えなかった。それさえひょっとしてちゃんと声になっていなかったのかもしれない現実に薄く息を吐いて、アッシュは全身の力を抜く。
抜かざるをえなかった、身体中に力が入らなかった。全身、今までにないほど身体が重くて、彼の寿命はここまでなのだと何よりも雄弁に彼に伝える。
――ぎりぎり間に合った、と、思っていいのだろうか。
薄れる意識の中、彼は思う。
――彼のレプリカは、「ルーク」は、本当にヴァンを殺せるのだろうか。
――ローレライを解放できるのだろうか。
思うことで疑問にすがることで、少しでも長く意識を保とうと足掻く。

信用にするにはあまりに情けない姿を見せ付けられ続けて、最期まで安心できない自分が滑稽で、安心させてくれないレプリカが悔しかった。彼がどう思おうとここで彼の生は終わりで、彼が彼女のためにできることはもう何もない。
それは事実で、それはきっと何よりも淋しくて。
事実が、何よりも哀しくて。

◇◆◇◆◇◆

金の髪をした最愛のひと。あの日黒く塗りつぶされた彼の人生に、ただひとり、ゆるぎない光で道を照らし続けてくれたひと。
レプリカに居場所を奪われ、一度は信じた人に完膚なきまでに裏切られた。行きどころをなくした彼は、しかしそう思っていただけで、――少なくとも今なら彼女の隣に居場所があるのだと思う。
思うけれど、アッシュにはそれに甘えることができなかった。
自分でもあきれるほどのプライドが、彼女のやさしさに甘えることを許さなかった。

何かを成し遂げて、そして彼女の隣に立とうと。
安っぽいプライドはそんなことを思って、その考えの間違いに気付いたときには時間がなくなっていた。
――同位体の存在による音素剥離。
それは少しずつ彼の生命を削って、そう遠くない日の自分の死を悟って、だったらなおのこと彼女のために何かをしなければと思った。
自分が死ぬことは、悔しくはあっても怖くはない。
ただそれは、自分がいなくなったあとも彼女が生き続けてくれればこそ。彼女の生きる世界が壊されると聞けば、それは何をひきかえにしても阻止するべきことだった。
そのためなら彼からすべてを奪ってのうのうと生きている、あのできの悪いレプリカと手を組んでもかまわなかったし、一度は尊敬した師を手にかけることにもためらいはなかった。

◇◆◇◆◇◆

――ただ彼女を守るために。
――彼女の笑顔を守るために。

それはいつしか彼の存在理由になっていた。それを思えばどんな無理も無謀も大したことはなかったし、傷の癒えない身体で世界中を巡ってもこたえたりしなかった。

――本当は、彼の手で直にナタリアを守りたかったけれど。
――誰に託すこともなく、彼の手でローレライを解放したかったけれど。

それはもうかなわない、剣を合わせれば弱った自分よりも力をつけていたレプリカの方がいつか強くなっていた。世迷いごとをぐだぐだ抜かす甘さはまだまだ抜けそうになかったけれど、彼が死にかけの身体を引きずっていくよりは、きっとずっと成功の確率も上がるだろう。

――こんな風に死ぬなんてのは、想像してなかったけどな。

思って、まだ思っていられることに少しだけ安堵して、

◇◆◇◆◇◆

……死ぬまで一緒にいて、この国を変えよう。
幼いなりに真摯に交わした約束が、そして耳の奥によみがえる。
……約束しろ! 必ず生き残るって!
かなわないと知って交わした約束が、ただ頭を巡る。

――すまない、約束……結局何ひとつ、果たせなかった……。

彼女は哀しんでくれるだろうか、泣いてくれるだろうか。
想像しようとして、けれど。
彼はそのかわりにかすかに口の両端を持ち上げてみた。

哀しんでほしい、泣いてほしい、けれど。
――けれど彼女には、強くやさしい微笑みの方がよく似合う。
自分の死を嘆き哀しむよりも、強い目で未来を見据えてほしいと思う。
だからこそ無茶をした、無理をした。だったら。
――何よりも愛していた彼女を、その微笑みを、果たして自分は守ることができたのだろうか。
それを確かめるすべは、もうどこにもないけれど。

全身に走っていた痛みさえ、とうにどこか消えていて。彼はただゆっくりと最期の息を吐き出した。
――砂時計の最後の粒が、ゆっくりとすべり落ちていく。

―― End ――
2006/07/30UP
アッシュ×ナタリア
OFP
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coeur vertueux
[最終修正 - 2024/06/27-10:09]