きっと彼女の存在だけで。
どうしようもなく、心が癒やされるから。
流れた血の量が多すぎて、くらりとめまいがした。
足りない血の分働こうとでもしているのか耳元にどくどく血の巡る音がうるさくて、頭がくらくらする。吸っても吸っても息が楽にならずに、今握りしめているはずの血にまみれた剣の感触さえどこか遠い。身体全体がどうしようもなく重い、動き方を忘れてしまったように動けない。
それでも全プライドにかけて、弱いところを見せたくはなくて。
安っぽく薄っぺらで馬鹿な上に意味のないプライドだけで、今、この場に立っているようなもので。
これ以上はないほどに力を振り絞ってなおかつ表面はなんでもないふりで、ゆっくりと血を払い剣を鞘に収める。誰にも気付かれたくない中、特に気付かれたくない彼女が青い顔をして歩み寄ってくるのが。
そして彼の目に見えた。
「アッシュ、少し休みましょう? 無茶ですわ、こんな……顔色も、よろしくありませんし」
「負った傷はお前が癒しただろう、もうふさがっている。少し血が足りないだけだ。時間がねえんだよ休んでなんていられない、早く、」
言いかけて、さえぎるものは何もなかったけれど。長い言葉に息が足りなくて不自然なところでふつりと言葉が途切れた。ひそめられて聞いていた彼女の眉が、それにきりりとつりあがる。
「アッシュ!」
「大声を出すな」
自分でも分かるけだるい声に、彼女の目はゆるまない。行く手をさえぎるように立ちふさがって、腰に手を当てて、まるで挑むような強い目で見据えてくる。
純粋に心配してくれているからだと分かっている。彼の、自分をないがしろにしてでも決めたことに向かう性格は彼女の知る昔も、そして悔しいことに今も変わっていなくて、それを知っているから彼女がそんな彼の分を心配してくれているのだと分かっている。ストッパーがないと突っ走りがちなのは彼女も同じだけれど、彼のそれは彼女以外にありえない。
知っている、分かっている。口に出せはしないけれど、確かにありがたいと、思う。
――けれど。
触れてしまえばあっけないほどに細い肩を、そして彼はゆるく包みこんだ。
力加減を間違えたなら握りつぶしてしまいそうな、手袋ごし、服ごしにも分かる国を民を背負うにはあまりに細い肩。いつになくあたたかいと思うのは、彼に血が足りないからで、きっと指先が冷え切っているからで。
「アッシュ……! 休みなさい」
必要以上に力を込めそうになる手を何とか押さえ込んで、そんな彼を知らないナタリアがきびしい声で命じた。それにゆるく首を振って拒否して、さらにつりあがった柳眉。
――どんな顔をしても、彼女はなんて美しいのか。
まったく関係ないことを、頭が勝手に思う。
「……血が流れた、俺のも、魔物のも。やつらは鼻がいい、ここにいると新たな魔物がやってくる」
「ですけれど!」
「ああ、お前の言うとおりだ。今の俺はまともに戦えねえ、だからこの場を離れるのが先だ。お前が弱いとは思わないが、一人で俺をかばいながら戦えるほど、ここらの敵は甘くない」
うそではない、けれど本当はこんな言い方はしたくない。やさしい彼女のやさしさに甘えたくなどないし、守りこそすれ守られるなんて不本意もいいところだ。そうするくらいなら身を削る方をいっそ選びたい。
けれど。
それでは彼女が心配するから、彼女の顔が自分のせいでつらく哀しいものに曇ってしまうから。それがいやでそんなどこまでも勝手な理由で、強い目線を真正面から受け止める。
「……場所を移れば、ちゃんと休んでくださいますね?」
「ああ」
のびてきた手にほほを包まれて、彼女の肩に触れたままだったことに気が付いた。そもそも、なぜ肩に触れなければならなかったのか、そんな必要はきっとどこにもないのに。
自分が悔しくて情けなくて、彼女に少しでも長く触れていたい思いをねじ伏せて、手をはなし身を翻す。回った視界に頭がくらくらして、そもそもそれがなくても頭がふらふらして、けれどそのすべてを表に出してなるものかと奥歯をかみしめる。
たった今まで彼女に触れていた手のひらが熱い、動いたことで外れた彼女の触れたほほが熱い。きっと全身血が足りない中身体中すべてが冷たい中、ただ、彼女の触れたそこが。そこだけが。
どうしようもなく、熱を帯びていて。
「アッシュ、落ち着きましたならもう一度術をかけますから。増血の術はありませんけれど、もしかしたら何か、」
「いらん。……無駄な術なんて使うな」
「無駄ではありませんわ! わたくしは、」
向きになる彼女に、アッシュは笑った。きっと今までになく素直にほほをゆるめたのに、はっとしたナタリアがふと口をつむぐとふとそっぽを向いた。
情けない自分に腹が立つ、彼女に気を使わせる自分なんて存在する価値がない。
けれど、それでも。
きっと彼女の存在だけで。
どうしようもなく、心が癒やされるから。
血が足りない、頭が回らない。
熱が足りない、けれど――彼女だけは、今ここにいる。
