その沈黙はきっと。
彼なりの愛の言葉なのだと。
一度は喪われたと思って、けれど彼は帰ってきて。記憶を亡くしていた彼は、けれどまるで別人で。祈るように待ち続けて七年、別人のようだった彼は事実別の人間だった。
そうと知ったと同時にやっとやっと逢えた本物の彼は待ち望んでいた彼は、けれど――なにも語ってはくれなくて。
「ナタリア……あの、大丈夫?」
途惑ったような訊ねる声につと振り向いたなら、亜麻色の髪を揺らすティアが、口の端を持ち上げるだけの静かな微笑を浮かべてそこにいた。ゆっくり瞬く間にまるで闇から抜け出るように歩み寄って、音もなくナタリアの脇に腰を下ろす。
城を出て何回目の野宿だろう、降るような星をちらりと見やってから、
――夜、は。彼女になんて似合うのだろうと。
揶揄ではなく詩的にただそう思って、そしてナタリアはいつの間にか詰めていた息をひそやかに吐き出した。
「わたくし、そんなにひどい顔をしていますの?」
「ひどい……というわけではないけれど、そうね、思いつめた顔をしているわ」
まるでそれは斬って捨てるような、ささやくようでいて鋭い声に笑ってみる。きっとこわばった顔は少しかたちをゆがめただけで、笑みなんて到底作れなかったと思うけれど。
「あなたに……皆に、心配をかけていますのね」
「……事情は全員が知っているわ。誰もあなたを責めない、けれど、」
それはきっと、ただまっすぐに心配してくれているのだろう。いつもは感情を表に出さないようにつとめている、そうしているのだと最近ようやく身に染みて分かってきた彼女は、そして今珍しく心配そうな表情を前面に出していて。
つきん、心の奥が鋭く痛い。
「わたくし、ひどい女ですわね」
「ナタリア……」
ため息をただ吐き出せば、何を言うべきか困ったように首をかしげた彼女。冷たいふりをする本当はやさしい彼女をこんなにも心配させて、ただただ自分の思考にはまるなんて。ああ、実際自分はなんてひどい人間なのだろう。
旅に出て、王女ではないただのナタリアとして扱われて。そしてこんな人でなしの自分を知った。そしてこんなに情けない自分を知った。知らないよりも知っていた方がきっとずっとずっといいことだけれど、知ってしまえばつらいつらい、本当の自分の姿。
強いなんて錯覚だ、単なるナタリアはこんなにも弱くもろく卑怯な人間でしかない。
――ああ、だから彼はなにも言ってくれないのだろうか。
「離れていた間のことを、聞いたわ。彼は彼なりにあなたのことを気にしているようだった、とも」
「……そう、……ですか。わたくしにはただ、拒絶されているようにしか、……思えませんけども」
やさしい彼女に甘えて、今だけは甘えてそっと吐き出してみる。彼とはほとんど顔を合わせただけの、一緒に行動したわけではない彼女だから。きっと誰より客観的に彼を彼女を見ていられるティアだから、そのやさしさに甘えてすねてみる。
夜風に長い髪が揺れて、闇よりも深い蒼が今は見えないから。
だから、――今はどうしても甘えて。
「何でもいい、話してほしいのです。今までのことでもこれからのことでも、たとえ断片でもいい、何かを話してほしいのです。
わがままなのは承知していますわ、だって、わたくしはたったそれだけで彼の特別になりたいんですもの。そう錯覚したいだけなのですもの。
……ああ、言葉にしたなら、本当にわたくしは、」
――なんて、なんてひどい女なのか。
城でいつも偉そうにしていられたのも、玉座でただ鷹揚にかまえていられたのも、すべてすべて自分は彼の特別なのだと、そう思っていたからで。錯覚でもそう信じていたからで。想っていた相手を間違えていたと知って、本物の彼に再会して、けれど彼が何も言ってくれない、たったそれだけでこんなにも弱い自分がむき出しになって。
立てたひざに顔を埋める。自分を哀れむ自分が悔しいのに、沈む心は何をしても浮き上がってはくれなくて。
「わたくし、ひどい女でしょう? ルークを、今ではもう「ルーク」として見られない。わたくしの「ルーク」はアッシュで、彼が「ルーク」を否定するから、たったそれだけで混乱してどうすればいいのか分からなくなって。
ルークはルークなのに、それなのにわたくしは、」
――あの人が、ああ、今こんなにも大切で。蔑ろにしていいはずがないルークさえ、今は、
ぐちゃぐちゃの心、ただ思い付くままにとりとめなく吐き出すだけの口。言葉にしたなら少しは気もおさまるかと思ったのに、頭はますます混乱して、心はますます沈んでいく。
「わたくしは……!」
「――きっと疲れているのよ。ナタリア。
いろいろなことが起きすぎて、今はただ混乱しているだけだわ。アッシュがあなたに何も言わないのも、わたしには、彼がそんなあなたを思いやっているからに思える」
やわらかく背がなでられる。やさしいティアはやはりやさしくて、いくら愚痴ってもせめて泣くまいと思ったのに、思っていたのにゆっくり視界は潤んでいく。
「いつか、言ってくれるわ。わたしたちには何も言わなくても、彼は、きっとあなたには。
今は、ほら、起こったこと知ったことで頭がいっぱいでしょう? 彼の話したいことは、そんな状況ではきっと収まりきらないんだわ。だから何も言わない。言ってもきっと、これ以上あなたを混乱させるだけだから。あなたをこれ以上苦しめるだけだから」
歌うためのきれいな声が、ささくれた心をなだめてくれて。
……ああ、確かに疲れているのかもしれない。気を張りすぎて。――けれど、
「待ちましょう? あなたなら彼を信じられるでしょう?? いつまでだって、何があったって。
大丈夫、彼はちゃんとあなたを愛しているわ。……あなたは気付いていないのかもしれないけれど、彼はいつだってあなたを見ていたんだから」
くすんと鼻が鳴って、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。たった一粒こぼれた涙は、そうして彼女の手に吸い取られて。――ああ、本当に疲れていたのかもしれない。そして意識がくたりと闇の色に染まっていく。
やさしい手が、彼のかわりのようにただ背をなでてくれる。
――その沈黙はきっと。
――彼なりの愛の言葉なのだと。
彼女の言葉通りに信じていいのだろうか、それを。けれど。
……ああ、そうか。言葉はきつかったけれど、あの碧の目は、あの碧の目だけは。
あのころと変わらず、深いところでやわらかかったかも、しれない。
