そして傷が、胸の奥の心に横たわる傷が。
ただ静かにきしむような音を立てて。
――彼を愛している。
それはナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアのいつか根底にある事実だった。彼――ルーク・フォン・ファブレを、今は鮮血のアッシュを名乗る赤毛の青年を。
愛している。ただただまっすぐに、他の何ものをも入り込む隙のないほど完璧に。
――だから、彼を信じている。
それはあるいは彼本人よりも、彼のことを。
それなのに。
「……まったく、わがままにもほどがありますわ」
火の粉が細かく何度もはぜて、ぱちぱちと音を立てている。小さくはあっても勢いのある焚き火を手にした細めの薪でつつきながら、ナタリアは自戒の息を吐き出した。
夜。陽のあるうちに街にたどり着けなかったため、今夜は野宿で。
王女ではあっても紆余曲折を経て改めて王女と認められても、このメンバーと一緒に行動をしている限り彼女は単なるナタリアで、だから夜の見張り当番は平等に回ってくる。今夜の前半はだから彼女の当番で、頼むねよろしくと彼女以外のメンバーが毛布にくるまったのはそう昔のことではない。
――休むことができるときにちゃんと身体を休めて体力を回復しておく。
それを旅慣れたメンバーは、彼女と同じ王族のはずのルークさえ今ではちゃんと心得ていて、この一帯におそらく現在、彼女以外ちゃんと起きている人間はいなくて。
夜の闇はまだそれほど深くないけれど、普段がにぎやかな分沈黙は深い。
「アッシュ……」
つぶやく、それだけで胸がきゅうと小さく鳴く。姿を思い浮かべれば心臓が小さくなってただ痛みを訴えて、けれどその痛みさえどこか甘くて。
「今……あなたは何をしていらっしゃいますの……?」
答えのあるはずのない呟きが夜の闇にとけて、
「あなたは何を目指していらっしゃいますの、わたくしがあなたにできることはありませんの?」
きゅうきゅうきゅうと、胸に疼く甘い痛みはますます強くなるばかり。
――彼を愛している。
――だから、彼を信じている。
それはもはやナタリアを形づくる根本にあって、揺らぐことはない。心すべてを預けてしまってきっと彼には重いだろうそれが心苦しいけれど、それくらいに彼は彼女にとって特別で。
その彼が、何かをしようとしている。
時間がないと焦りながら、限られた時間で何かをしようとしている。
それを知っていて、ただそれだけが分かっていて、けれど彼の目指すものがしようとしていることが分からなくて。この手ならいくらでも貸すのに、いや、貸したいのに。彼のために何かができる、それは彼女にとってこの上もなく幸せなことなのに。
彼は何も言わない、何も知らせてくれない。彼女の手を、すべての助けを拒んでただ彼の目標に突き進んでいる。
「それはきっとこの上もなく、あなたらしいですわ。分かっています、わたくしはそんなあなたを愛したのです。愛して、いるのです」
夜の闇につぶやいて、焚き火はただぱちぱちと小さな音を奏でて。
「それでもわがままなわたくしは、願ってしまうのです」
――彼のために何かをしたい。
――何でもいい、話してほしい。
――いや、話してくれなくてもいい、何をしようというのでも、
――彼を助けたい、手助けをしたい、……それさえもきっと詭弁でしかなくて、
「アッシュ……、」
きゅぅ、またひとつ胸が甘く痛む。甘い痛みは心いっぱいに広がって、ああ、きっとこの心が目に見えたならずたずたに斬り裂かれているのだろう。そしてそれはどうしようもなく甘く甘く、彼女を責めたてる。
つらいほどに、息さえも詰まるほどに。どこまでもどこまでも、それは甘く。
きっとそれは夜の闇のせいだ。
普段はにぎやかなメンバーが寝静まっていて、普段がにぎやかな分ずっとずっと静かに感じてしまう、そのせいだ。
どうしようもないことを、どうしようもないと、
そう分かっているのにつぶやいてしまうのは、
「アッシュ、」
そして傷が、胸の奥の心に横たわる傷が。
ただ静かにきしむような音を立てて。
「そばに……いてください。……どうか、そばにいさせて……っ、」
ただの女のおろかなささやきが、
夜の闇に溶かされ消えていく。
