昼間の陽の光はあれほど強いのに。
朝もやの中に広がる金の色は、なんてなんてやわらかいのだろう。

―― brume matinale

足音を立てないように甲板に向かった。装甲板に硬いブーツではどうしても音は立つけれど、すべるような歩き方で可能な限り足音を殺しながら。
そしてドアの向こうはすっかり光が満ちていて。
暗い艦内に慣れていた目にはまぶしい中へ、何度もまたたきながら歩み出た。

◇◆◇◆◇◆

陸上装甲艦タルタロス、魔界から戻ってきて最初の朝。
現在の進路はベルケンドにとっていて、しかし人手が足りないために夜の航海は無理だった。何しろ交代要員がいない。そのため錨を下ろして足を止めていたのだけれど。
音機関都市についたならヴァンの動向をその意図を探る、それを考えただけでどこか気持ちは焦るけれど、焦ったところで艦の足が速まるわけではない。
分かっているもののどうにも追い付かずに、だから彼は気分転換のために外に向かった。

視界は一面の青、朝日を反射してきらきらと水面が輝いている。向こうの方にはもやが広がっていて、夜の間に冷えた空気、髪をなでる潮風が心地良い。陸地はまだ遠く海鳥の声は聞こえない、かわりにおだやかな海が立てる音が低くかすかに響いて、それはまるで鼓動によく似ていた。
朝のさわやかな空気に血の上った頭もこれで少しは冷えるだろうか、なんて。どうしようもないことを思って、そんなばかげたことを考えた自分に息を吐く。
「……アッシュ?」
そしてどれほど気をゆるめていたのか、ふとかけられた声に彼はぎくりと身を震わせた。

◇◆◇◆◇◆

「――他のやつらはまだ休んでいる、お前も、」
「ふと目が醒めてしまいましたの。いまさら寝なおすには、微妙な時間でしょう?
だから少し、風に当たろうと」
動揺を知られないようにとことさらゆっくりと振り返った先、そんな説明をしながら彼に向かって歩いてきたナタリアは、ぐるりと視界をめぐらせてそして微笑んだ。
「魔界を知って、陽の光のありがたさを痛感しましたわ。世界は、なんて美しいのでしょう」

――世界は、なんて美しいのでしょう。
くらり、その言葉にアッシュの脳裏がきしんで懐かしい風景が目の前に浮かぶ。
――なんて、美しいのでしょう。
そう言って微笑んだのは幼いナタリアで、ああ、あれはいつのことだっただろう。セピア色に染まった想い出は細部をずいぶんぼやかせていて、それでも彼女の声は言葉はしぐさはつぶさに覚えている自信がある。
――美しいばかりではない、世界には、だからこそ、
つられてあのときの自分の言葉が喉の奥からこみ上げてきて、けれど口を開きかけたところでアッシュはぐっと奥歯をかみ締めた。彼に横顔を見せるナタリアは多分そんな彼のことには気付いていない、生まれたばかりの朝日に、朝もやに風景に目を細めている。

きっと、名乗るべきではなかったのだと思う。鮮血のアッシュの名ではなくて――自分が被験者のルークなのだと、七年前に誘拐されたのは自分なのだと、そんなこと言い出さなければ良かったのだ。
そうすればきっと、彼女は今も不信感と疑問をないまぜにした顔で、決してこんな風に彼に近寄ってはこなかったのに。あの出来損ないのレプリカと同じ顔の彼に疑問を抱きながら、それでもきっとこんな風に無警戒に距離を詰めたりはしなかったはずなのに。
言葉を、説得の時間を惜しまなければよかった。艦を動かすにはどうしても必要な人数を確保するにも、きっと他の方法はあった。

どうしようもないことを振り返る自分が、どうしようもなく腹立たしい。
苦々しい思いそのままに顔をしかめている彼をくるりと振り向いて、けれどナタリアは笑う。
「あなたとこうして話ができて、嬉しいですわ」
「……何を、」
「いいえ、ただ思ったことを伝えたくて。深い意味はありませんのよ?」
言って、はにかんだように華やかに笑う。

名乗らなければ良かった。そうすれば彼女はこんな笑顔をきっと浮かべなかった、無駄にするつもりの期待を抱かせなくてすんだ。
あの屋敷には、あの国には、彼女の隣には。
――もう彼には、戻るつもりがないのに。戻るわけにはいかないのに。
彼の中のルークはもう死んで、死者は蘇ったりなどしない。
それ、なのに。

◇◆◇◆◇◆

「……のんびりしていられるのは今のうちだけだ、ベルケンド港に着いたら忙しくなる」
「もう、いじわるですのね」
笑顔が口ぶりだけすねて、彼の心に苦いものが広がる。
甘い疼きは、死者が覚えるものではない。
だからふとそらした視界には、まだ朝の顔の海。
――昼間の陽の光はあれほど強いのに。
――朝もやの中に広がる金の色は、なんてなんてやわらかいのだろう。

それでも、彼女は甲板からいなくはならなくて、
彼もまた、その場から動くことができない。

―― End ――
2006/10/05UP
アッシュ×ナタリア
OFP
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brume matinale
[最終修正 - 2024/06/27-10:10]