この世界には分からないことがいっぱいで。
ただそれが、けれど今は「淋しい」と思った。
「……っ」
別に何の用があるわけでもなく、何気なく彼の脇を行き過ぎただけだった。アリエッタの動きに合わせて踊った髪が、壁にもたれてなんだかぼんやりしていた――ひょっとしたらあれこれ思考に没頭していたのかもしれないけれど――彼の服に引っかかった。
とりあえずいきなりの痛いのとびっくりしたのでじたばたする彼女に、きっとそれは失敗だったのだろう。引っかかる感覚がむしろ強くなって、頭がつきつき痛くて泣きたくなる。
「……何やってるんだい」
「痛い……です」
「そりゃね、ああもうキミってつくづくバカだよね。暴れたせいで余計にからんでるよ。切っちゃえば一番手っ取り早いかな?」
「切る……」
「ナイフでばっさりやっちゃえば良いんだよ」
もしかしたらからかうように、けれど淡々と言われたことを。ゆっくり頭の中で反芻して彼女は首をかしげる。――かしげようとして、けれど余計に引っぱられてさらに痛くなったので途中でやめる。
「アリエッタ、ナイフなんて持ってない……」
「使わないし、当然じゃない? 言っとくけどだからってボクに期待してもムダだからね」
「……シンク、いじわる、です」
「今ごろ分かったの?」
ふっと笑われてその吐息が降ってきて、なんだかくすぐったくて首をすくめた。見上げたなら仮面に隠された顔、けれど口元は確かに笑みのかたちにゆるんでいて。それが心にくすぐったいけれど――居心地は悪くない。
……ただ、……つきつき痛いのは、いや。
「ナイフ持ってないし、このまま取りに行くのも鬱陶しいからはずすよ」
「?」
「めんどくさいけどね」
痛みにうるんだ目でそのまま見上げていたら、やれやれとまた吐息。
――けれど彼女の目に、それは言葉どおり嫌がっているようには見えなくて。
くっと軽く引き寄せられて、その方がはずしやすいのかとぼんやり思う。これだけ間近ければいやでも彼のにおいが届いて、シンクは知っているのだろうか、それともライガに、魔物に育てられた彼女だから固有のにおいの些細な違いをかぎ分けられるのだろうか。
彼のにおいはイオンとよく似ている。目を閉じたなら、こうしてじっとしていて彼が黙っているなら、うっかり間違えてしまいそうなほどに。
とてもよく似ている。
――シンクは、ふしぎ。
――シンクは、
「シンクは……なに考えてるか、分からない……です」
「ふうん? ボクはキミに思考を読まれたくなんてないから、ちょうどいいね」
口元しか見えない仮面の下が、そうして口元だけで笑う。今度のこれは意地悪な笑いでそんな笑みを浮かべているくせに、けれどその手は器用に丁寧にアリエッタの髪をいじっている。
――ほら、そうやって言葉と態度がばらばらだから。
「……でもアリエッタは、シンクが、――きゃぅっ!?」
ぽつりとつぶやいたとたんにぐいと髪を引っ張られて、痛みに声を切って悲鳴を上げたなら。涙で潤んだ視界に、先ほどまでとよく似た、けれどまったく違う笑いを浮かべる彼がいた。
「言わなくていいよ」
そして、かたい声で――彼女の言葉なんて聞きたくないと、言った。
「……それよりさ、」
彼の声が心に痛くて、頭のつきつきよりもぐさぐさ痛くて、引っ込んでいた涙がまた浮かんで。言おうと思っていた言葉はかき消えて、ぐっと息を呑んでうつむいて。
一瞬引っ張られた髪はすぐに痛くなくなって、彼の手がまた髪をいじりだして。
痛いほどの沈黙――そしてぽつりと上がった声。
「のばしてるならちゃんと手入れしなよね? 見た目と違って、手ざわり良くないよ」
「……イジワルぅ……」
「だって本当のことだし」
――ていうか、ああ、キミに言葉の裏を読めって、無謀だったっけ。
「??」
「気にしなくて良いから……と、」
つん、また走った痛み。びっくりして身をすくませたなら、今度は抵抗なく身体が動いた。ぱっと振り返ったなら、いつの間にか彼女に背を向けて、あーやれやれと手をはたくシンクがいて。
「シンク……あの、」
「もうこんな時間になってたんだ。まあ、暇つぶしにはなったかな」
そして、上げかけた彼女の声を遮るようにいっそわざとらしい声が向いて、
「その長い髪も、ひょっとして「導師イオン」の趣味なのかい?」
――答えようとしたころには、その背中はかき消えていて。
この世界には分からないことがいっぱいで。
ただそれが、けれど今は「淋しい」と思った。
彼の考えが、どこか哀しそうに笑うその理由が分からないことは。
ただただアリエッタの心に、淋しい。
