あとどのくらいの時間、こうしておだやかに過ごすことができるのだろう。
深いけれど不快ではない沈黙の中、頭の中を巡るのはただそんな思考。
「イオンさまぁ! お茶淹れてきました、休憩にしましょう!!」
ばたばたにぎやかな気配が近付いてきて、勢いのままに扉を開けて。教団の壁も扉も決して薄いものではないし、彼には気配を読む能力もなかったけれど、それでも彼女が近付いてくるのが分かっていたイオンはにこりと微笑んだ。
その笑顔を向けた先、重そうな茶器一式を抱えて部屋に駆け込んできた少女は。彼の執務机を見るなり、うぇっと小さくつぶやいてぎゅっと顔をしかめる。
……どうやらこの書類の山は彼女のお気に召さなかったらしい。
「すみません、すぐに片付けますから。お茶、淹れてくれますか?」
「もちろんそのつもりでこーんな重いもの持ってきたんですけどぉ、」
処理済みの紙を束にしてとんとんと机でそろえるイオンは、そんな彼女にくすくすと笑う。くるくる表情の変わる彼女は、見ていて楽しい、きっとずっと見ていても飽きることなんてない。
「……イオンさま、本当に真面目ですよね。あんまり根詰めてると、疲れちゃいますよ?」
しみじみつぶやかれて、ふと気付いた。どうやら先ほどのすごい顔は書類の量にではなかったらしい……考えてみれば、先ほどお茶の用意をしてきますねと席を立つまで彼女はこの部屋にいたわけで、そうなれば書類そのものは見ていたはずだ。
そうなると――彼女がいなかった間に片付けた書類の量に、だろうか。
「これが導師としての僕の仕事ですし、僕にはそれしかできませんから」
まだ目の通していない書類はこちら、片付いた書類は部署ごとにいくつかに分けて。本来はそんなこと、もう一人二人導師守護役を呼んで頼んでしまえばこと足りるけれど、彼はそういった些細な作業が嫌いではなかった。
そうして手だけは動かしながら、……口元はちゃんと笑えただろうか。
書類を片付けるくらい、なんともない。
術を使えば疲労が激しくすぐにもぱたりと倒れるし、それ以外の場所で役に立ちたくても、若輩者で知識が足りないし腕力体力はさらに足りない。
ローレライ教団の導師として、たくさんの人間に敬われているのに。
たとえそれが表面的なものだったとしても、敬ってくれるその気持ちにむくいたいのに。
「でもでも、がんばりすぎてある日いきなり倒れられるとぉ、あたしびっくりしちゃうんですけど」
「あはは、そうですね。アニスを驚かせたりしないように、気を付けます」
「笑いごとじゃないですってばー!」
のんびり話しながら彼が作った執務机の上のスペースに、ふくれながらアニスがお茶を用意していく。その手さばきはいつもながら見事なもので、にこにこと眺めているうちに、ぷくっとふくれた彼女の表情は苦笑に変わっていく。
「もー。イオンさまってばタチが悪いんだからー」
「……そう、ですか……?」
「ほら、そうやって困った風に笑うから。なんだかあたしの方が悪いことしている気分になるじゃないですか」
別に本気で責めるわけではない少女の声に、ただ顔をゆるめる。はいどうぞと差し出された器を両手に包むようにして、ゆっくり口に含む。
ふわりと広がるさわやかな香り、ちょうど飲みごろの温度。
それはまるで知らず張り詰めていた神経を、ゆっくりほぐしてくれるような。
「ああ、なんだかほっとします……」
「やっぱりがんばりすぎているんですよぅ、アニスちゃんが腕を振るってるとはいえ、単なるお茶なんですから」
しみじみつぶやけば、にぎやかな声が即座に返ってきて。こっちもどうぞとふんわりとクリームの添えられたシフォンケーキに、イオンはただただ微笑む。
おだやかに過ぎる日々、変わらない毎日。
たまに儀式があって公務として人々の前に出て、あとはこうして書類に目を通していくだけの。たまにこのにぎやかな導師守護役の少女が騒ぎを起こして、それに右往左往するだけで彼にとって大事件になるだけの。
そんな日々が続く中、ひょっとしたら許されるだろうか。
――彼女が自分のそばにずっといてくれることを、望むことは。
ケーキを一口、ああ、美味しいですとつぶやけばにぱっと明るくなる誰よりも頼りになる少女。
ふと気付いて首をかしげたなら、どうしましたと大きな目がきょとんと見開かれて。
「……アニスは飲まないんですか?」
「えっへへ、実はその言葉を待っていましたー!」
彼の分を用意していたときとは違う、明らかに雑な手付きでなみなみお茶でカップを満たしていく姿に、ただ頬をゆるめる。生命力そのもののような、彼にとって太陽の光そのもののような少女にただただ目を細くする。
「アニス」
「はい?」
「これ、食べますか? 美味しいからおすそ分けです。……僕にはもう、十分ですから」
「わっほー! ありがとうございますいつかアニスちゃん特製のお菓子でも作ってきますねそのときは全部食べてくださいね!!」
「ああ、これはやっぱりアニスの作ったものではなかったんですね」
「お菓子作りはまだ守備範囲外なんですよぅ。がんばりますから!」
「楽しみにしています」
そして部屋から声が消えて。茶器の触れる音だけが、しばし部屋を満たしていく。
――あとどのくらいの時間、こうしておだやかに過ごすことができるのだろう。
深いけれど不快ではない沈黙の中、頭の中を巡るのはただそんな思考。
「アニス」
「はいはい?」
「……ありがとうございます」
「……ほぇ?」
きょとんと瞬いた少女に、ただ微笑みを向けて。
ゆっくりゆっくりと、ただ静かに時間が過ぎていく。
