彼は、彼で。
他の誰のかわりでもなくて。
誰も誰のかわりになんてなれなくて。

―― reproduire un geste

口元をやわらかくゆるませて、小首を傾げるようにして。
「――アニス?」
どうしたの? のかわりに名前を呼ばれて、返事をしようと薄く口を開けたところでアニスは鋭く息を飲み込んだ。
身体がぎゅっとかたくなる、明らかに脈が速くなってどくどくいう心臓の音がなぜか耳元に大きくなる。冷たい汗が全身に浮かんで、冷たいといえばこの指先。
まるで、凍り付いてしまったような。
――違う、だめ、こんなの。
思うのに凍り付いた身体は動いてくれない。呼吸さえ止まって瞬きさえ忘れて、ただただ胸が痛くて。
「どうしたの、アニス?」
――どうしました、アニス?
どこまでも無垢で無邪気な彼に重なるのは、あのおだやかでやさしい声、笑顔。もう喪われてしまった、彼女自身が喪わせてしまった、二度とは戻ってこないやさしいひと。
浮かんでいた笑みがやがて消えて心配そうな目になって、ああ、そんな表情なんて浮かべてほしくないのに、
「ねえアニス、大丈夫?」
「……っ、ぅ、……うん。だ、だいじょうぶだよフローリアン。ちょっとぼーっとしてただけ、なに?」
喉がしゃくりあげる音を立てて、少しだけ息を吸い込んだ。むせそうになる喉に痛い空気のカタマリに、しかしようやく硬直がとけた。
自分でも分かっているぎごちない笑みに、彼の顔が大きく歪む。
今にも泣きだしそうなその顔に、だから思わず手をのばせば。
ぎゅうっと強く強く強く、その手は握りしめられて。

◇◆◇◆◇◆

分かっているのだ、それはたとえば痛いほどに。
被験者のイオンと彼女が仕えたイオンが別の存在だったように、イオンとシンクが別の存在だったように。フローリアンはどこまでもフローリアンという存在で、他の誰でもない彼自身だということは。
分かっているのに、ときおり彼の中にイオンを捜してしまう。彼のちょっとした仕草にイオンを見つけてしまう。重ねてしまう。そうして心臓が一気に点になるまで縮まるような、あのときの胸の痛さを苦しさを思い出して。
どうしようもなくなってしまう。

◇◆◇◆◇◆

「大丈夫だよ……フローリアン」
――ごめんね、なんて謝ることはできない。謝りたいけれど、その言葉を口に出すわけにはいかない。自分が本当に謝りたいのはあの時消えてしまったイオンに対してで、今ここにいるフローリアンは、それを謝られたところで困惑するだけだろう。
手を握りつぶされそうな、加減を知らない力にだから精一杯の笑みを浮かべる。
「ん、だいじょうぶ。もう、平気だよ……」
「……うそ」
「ウソじゃ、ない。本当にもう大丈夫だから」
イオンに対しては嘘を吐いてばかりだったけれど、その嘘はきっと彼に全部ばれていた。やさしい嘘もずるい嘘もひどい嘘も、きっと全部気付いてそれでも彼は許してくれた。
フローリアンに対しては、だからできる限り嘘を吐きたくなくて。
首を振れば、けれど彼は信じてくれない。握られたままの手にさらにぎゅっと力が入って、今度ばかりはうっかり痛みに眉を寄せたなら、はっと気付いたようにあわてて力が抜ける。

「ごめん、ごめんねアニス、痛かった?」
「へーきだってば。フローリアンが思うよりもアニスちゃんはがんじょーなんだから」
――だから、謝らないで。
ぱっと引きかけた手を逆に握り止めて、笑ってみせる。
「それで、何だったの? フローリアン」
あのひとと同じ顔で同じ声で、彼が笑ってくれれば良いと思う。身勝手にそう願う。

◇◆◇◆◇◆

彼は、彼で。
他の誰のかわりでもなくて。
誰も誰のかわりになんてなれなくて。
だからこそ。
大切な、誰よりも大切だったあのひとと。喪われてしまった、喪わせてしまったあのひとと。同じでも違う彼には笑ってほしくて。
きっとこれからも、自分は彼の仕草にイオンを捜して。見つけてそのたびに心臓が痛くなっても。泣きたいほど切なくても、いっそ潰したいほど自分を嫌っても。
彼は、彼だから。

だからアニスは彼に、笑いかける。
ちくんとまたひとつ、ぶり返したように心臓に痛みが走る。

―― End ――
2006/07/10UP
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reproduire un geste
[最終修正 - 2024/06/27-10:16]