あなたの笑顔が好きです。
まぶしくて、本当はまっすぐ見ることなんてとてもできないけれど。
ローレライ教団総本山ダアト、神託の盾本部奥深く。王女と一緒に助け出した導師イオンは、いつものように微笑んでいた。導師のくせに、教団内で一番偉い立場にいるのに拉致されて軟禁されて、けれどそんな不快感を彼は表に出さない。
……本当は、何も不快に思ってさえいないのかも。
本部から脱出しながらそんなことを思っていたら、隣を走っていたイオンがふっとアニスに目を向けた。
「……どうしましたアニス?」
「ほぇ? な、なんでもないですよぅイオンさま! それよか無茶して舌かんだりしないでくださいねっ!!」
「あはははは、大丈夫ですよ」
そうして声を上げて笑う姿は本当に年齢どおりの少年で。そういえば何年か前、まだ自分が導師守護役ではなかったころに遠目に見た彼は、こんな風に笑ったりしなかったような気がする。
思って、その瞬間アニスの心に自分の「役目」のことが浮かんで。
浮かべていた笑みがふっと温度を変えたことに、多分彼女だけが気が付いた。
――イオンさま、知っていますか?
――あたしはあなたを騙しているんです。
――ずっとずっと、最初から今までも今も、そしてきっとこれからも。
――あなたを騙しているんです。
なぜだかにこにこしながら走っているイオンを見るのがつらくて、角を曲がるきっかけでアニスは彼から視線をはずした。まっすぐ前を、白くて長い上着のすそをなびかせながら先頭を走る赤毛をにらみつけるように視線をはずした。
モースのスパイの自分、与えられた役目はイオンの行動を逐一報告すること。
イオンが好きで、いつの間にか大好きで、だから時間を経るごとにつらいつらい、自分の立場。イオンから信頼されて、イオンからの信用が高まって、だから時間を経るごとにつらいつらい、自分の役目。
スパイなんて信用されてなんぼだから、報告以外の役目は受けていない。信用されるようになれ、何人もいる導師守護役のうち一番信用されるようになれ、指示されていたのはそんなこと。
下手な演技はかえって疑われるから、自然体で接するといい。――そんないらんお世話のアドバイスを押し付けてくれたのは、一体誰だったか。そのいらんアドバイスに思わず従ってしまった自分は、今も従っている自分は、一体何を考えているのか。
隣を走るイオンは、もともとあまり身体が丈夫でないためか足が早いなんてとてもではないけれどいうことはできない、けれど特に遅いというほどでもない。注意していないとうっかり追い抜いてしまうけれど、注意さえしていれば特に苦労することもなく隣を走ることができる。
隣、を。
――イオンさま、分かっているんですか?
――あたしはあなたを裏切っているんです。
――最初からそのつもりであなたに近付いて、最初からそのつもりであなたに信用されて、最初からそのつもりであなたに微笑みかけているんです。
――あなたに仕えています、確かに導師守護役としてあなたのために生命を賭けています。
――でもあたしは、あなたを裏切っているんです。
――これから先、どうしようもなく絶対に、明確にあなたを裏切るかもしれないんです。
――ひょっとしたらあなたの生命を脅かすかもしれないんです。
――イオンさま、分かっているんですか。
ほっそりとしていて身体が弱くて荒事が苦手でおだやかで、けれどどうしようもなく強いひと。どうしようもなく頑固なひと。いつだって微笑んでいて誰だろうと頼まれたならいやとは言わなくて、向けられた期待に応えようといつだって真摯なひと。
アニスの大好きなひと。
……そんな彼に対して、自分はいったい何をしている?
またひとつ角を曲がって、見てはいないけれど視界のすみ、誰よりアニスの注意が向いている人がふとバランスを崩した。思うよりも早く身体が動いていて、あわてて彼を支えようと手をのばしたなら。気持ち程度に体重がかかってそれでバランスを取り戻して、いつものおだやかな笑顔がアニスに、アニスだけに向けられた。
「ありがとうございます、アニス。いつもすみません」
「これっくらいどってことないですよイオンさま、それよか捕まらないうちに早く逃げちゃいましょう!」
「そうですね……僕が、導師としてもっとちゃんとしてたなら、」
「もしもの話は後回しにしておきましょう? だいじょぶです、あたしがイオンさまを守りますから」
「……そうですね、頼りにしてますよ、アニス」
「頼られました!」
考える前に口から出てくる言葉、調子よく軽いくせにちゃんとちゃんと導師守護役らしい言葉。再び走りはじめたイオンのあとに続きながら、細い背中を泣きたい気持ちで見つめて、
先ほど向けられた、心があたたかくなる、けれどその分心のしめつけられる笑顔にアニスは唇をかんだ。
あなたの笑顔が好きです。
まぶしくて、本当はまっすぐ見ることなんてとてもできないけれど。
大好きな、いつの間にか誰よりも大好きな彼女の主人。アニスの護るべきひと。
いつかあなたを裏切るあたしを、あなたは知っていますか、分かっていますか?
