そうだ、多分彼の言うとおり、
――あとほんの一押しなのだと。
「ガイ、ちょっとお時間よろしくて?」
「うひああああっ!? ……ち、近寄らないで、いてくれるなら。つかもうちょっと離れてくれないか」
「――相変わらずですのね」
シェリダンの倉庫でなにやら音機関をいじっていた金髪の青年が、声をかけた彼女があきれるほど大げさに跳ね上がった。いっそ涙目で振り向く彼に思わず肩をすくめて、まあその言葉どおり少しだけ身を引く。
彼の手にはドライバー、足元には一抱えほどの、配線やら基盤やらがむき出しになった何かのカタマリ、あとは広げられた工具類。旅の間中荷物の中にそんなものを見た覚えはないから、おそらくすべてここの住人にでも借りたのだろう。
で、嬉々としてそれをいじっていたところにナタリアがやってきて。
「……お邪魔なら、引き上げますわよ? 急ぎの用ではありませんし」
「いや、別にこっちも単なる趣味で息抜きだから。……何か飲むかい?」
彼女が返事をする前にひょいと立ち上がって、向こうの方に実はいたらしい作業員と一言二言かわして、ふとどこかへ行ったと思ったらすぐに両手に湯気の上がるカップを持って戻ってきた。
「安物のコーヒーで悪いけど。ミルクとシュガーは入れてある、かきまぜてくれ」
「はい。……ありがとうございます」
そして自分の分は何も入れないブラックをすすって、ふっと息を吐き出した。
適当な空き箱に適当な布――これなら大丈夫汚れていないからと借りてきた緩衝用の布をかぶせて。そんな適当な椅子を即席で作ってもらって、それに腰を下ろしたナタリアは苦笑する。
彼に任せると一事が万事こんな具合だ。頭の回転が速くて手先が器用で気が利く彼は、ありあわせでもちゃんと女性をエスコートする。さわやかな笑顔でこんなものしかないけどと謝られたなら、どうにも許してあげたくなる。
まったく、これでいまだに女性恐怖症だなんて詐欺に違いない。
「……で、どうしたんだい、ナタリア?」
「――何の用でしたかしら。
ああ、そう。……ルークのことで」
「ふうん?」
自分は先ほど音機関をいじっていたまま、適当に広げた工具やら機械やらの中に胡坐をかいてコーヒーをすすっていて、そんなガイがぴくりと眉を跳ね上げる。作りものではない笑顔はその始終浮かんでいて、けれどその名前を出した瞬間に一気に温度が冷えた。
それに怯んでなるものかとナタリアは短く息を吸う。
「単なる愚痴ですわ。忙しいとおっしゃるなら、今のうちですわよ?」
「いやいや、別にかまわないよ。……で?」
金髪の青年は、彼女の幼馴染に違いなかった。身分を隠してファブレ公爵家に入り込んで、単なる使用人と一国の姫のはずの彼女とはまるで身分差があったけれど、それでも彼はたしかに彼女の幼馴染の一人だった。
あるいは、アッシュ――本物のルークの思い出を共有できる、数少ない仲間で。
「あなたはどう思いますの?」
「ええと、……何がだい?」
「ルークのこと、……ルークとアッシュのことですわ」
ナタリアの言葉に彼はコーヒーをすすって、カップと湯気と、そんなもので彼女にはガイの表情が見えなくなる。無礼者とでも口にしたならすぐに彼の顔は上がるだろうけれど、ナタリアにはそんなつもりは起きない。
ただ黙って待って、……それは、彼が言葉を選んでいたからだろうか。
「ルークはオレの親友だな。あいつが実はレプリカでも何でも、オレにとっての親友はあいつだ。どんなにバカでも、あいつなりにいいところをオレは気に入っている。
アッシュは……いや、今ならそれなりに面白いやつとは思うよ。思うけどな、……正直、好きじゃねえなあ」
「……本物のルークは、」
「――ああ、そこが多分オレとナタリアじゃ違うんだと思うぜ?
本物と偽者って見るなら、たしかにルークはレプリカだし、そういう意味じゃ本物はアッシュで偽者はルークってなるだろうけどな。
けど、それは事実でもオレはやつらをそう見れない。ルークはルークって本物だし、アッシュは昔ルークって呼ばれてた、でも今はアッシュって本物だ。オレとってはそうなんだ、正しいとか間違ってるとか、そういう問題じゃなくてさ」
ずっと音を立ててガイが一口コーヒーをすすって、それにつられるようにナタリアもカップの中身を一口含む。十分に甘くしてあるそれがやけに苦いのは、多分ナタリアが迷っているからだろう。
「……わたくしが間違っていますの?」
――彼女にとってはどうしても本物のルークはアッシュで、……では今のルークは?
つぶやいた彼女に、ガイが苦笑する。
「だから、正しいとか間違ってるとか、そういう問題じゃないって。
アッシュは、昔のルークはナタリアにとって特別で、思い入れがオレとは違うだろ? おんなじ目線で考えようってのがまず無理なんだよ。……あいつも、ルークも他のみんなもそれは分かってる」
「けれど……わたくし、ルークにひどいことを、」
「アッシュはナタリアが特別だし、ナタリアの特別はアッシュじゃないか。
仕方ないんだよ。そのくせルークとアッシュは同じ顔だしな、もともと複雑なんだ、感情って厄介なものが入り込んじまえば迷って当たり前だろう?」
冷静で冷酷で、けれどやさしい声に涙が出そうだ。迷っている、その迷いを吹き払ってはくれないくせに、迷っている彼女をまるごと認めてくれるガイに、思わず泣いてしまいそうになる。
「アッシュとは十年、ルークとは七年。幼馴染って名乗るには十分すぎるほどさ。そんでもって迷うってのはそれだけ思い入れがあるってことで、ルークがそんなナタリアのこと知ったら素直じゃないけど多分喜ぶぜ?」
話しているうちにずいぶん冷えていたコーヒーを一口含む。やはり、苦い。舌に残る甘さがあるのに、どうしても苦い。うつむいた顔が上げられない、何か一言でもあげてしまったら、それをきっかけにきっと涙がこぼれる。
ずるくてひどい自分に、どこまでもやさしい彼に、やさしい彼らに泣いてしまう。
「……お礼を言いますわ。少しは、気持ちの整理ができたような気がします」
「迷いは吐き出すだけで楽になるっていうからな。女性の役に立てるなら光栄だよ」
彼が笑う。残っていた、すっかり冷めたコーヒーをぐいとあおってなんだか顔をしかめて、片付けておくからとナタリアの手にあったまだ半分以上残っていたコーヒーをカップごと取り上げる。
「――多分さ、」
「え?」
「あともう一歩ってとこだよ。大丈夫、深刻になってなくてもどこかで折り合いはつくからさ。せっかくのきれいな顔なんだ、しかめてちゃもったいないぜ?」
「……本当に相変わらずですわね。ガイ」
「ははは」
お邪魔しましたわ、と腰を上げたならウェイターみたいにどこか気取った洗練されたしぐさでガイが頭を下げた。くすぐったい気持ちでふふっと息を漏らしたなら、そうその顔だよと彼も笑って。
そうだ、多分彼の言うとおり、
――あとほんの一押しなのだと。
なぜか唐突に思って、重かった息を吐き出した。
それは多分ずいぶん軽いものに変わっている。
