意味もなく見上げた空は、ただどこまでも澄みきって青かった。
なんてことのないただそれだけで、無性に心がざわめく。

―― un beau jour

何の気なしに足を踏み出したなら、さくりと小さな音がしてただの雑草を踏みつけた感触があった。意味もなく歩いていけばその感触はただただ続いて、ふとした拍子に振り向いたなら、たった今踏みつけたそれらははや何ごともなかったかのように元通り立ち上がろうかというところだった。
渡る風は涼やかで深く吸い込んだなら肺まで正常に澄むようで、……ああ、たった数日前、障気に冒されていたころとはまるで違うと、単純な事実がやっと腑に落ちたように思う。

◇◆◇◆◇◆

使われる道具という目的だけで生み出されたレプリカたちの生命を糧に、この惑星全土に蔓延していた障気を中和した。本来ならこの生命までも使い切るつもりだったのに、中途半端に生き延びてしまった。
いつか草原のただ中に立ち尽くしたまま、アッシュはふと自分のてのひらに目を落とす。
生き延びてしまった、生き残ってしまった。こみ上げる自嘲の笑みはむせるようなセキにも似ていて、けれど素直に笑うことなんてできなくて、握りこぶしを作ると同時目を閉じ奥歯をかみしめる。
後悔はしない、自分が選んだ方法があのときあの瞬間最上のものだったと自負している。何度くり返しても同じ選択をしただろうし、今も消えない何か引っかかるものの原因がそこにあるとは思わない。

――ただ、
……ああ、そうだ。ただ思うのだ。
この空に、今は澄み切った雲ひとつないこの青空に。自分は、なんて不似合いなのだろうかと。渡る風がすがすがしいものであればあるほど、さわやかなそれにほっと吐息をゆるめるほどに、それは心に爪を立てる。
死にたいわけではなかったし、今も死ぬつもりはない。けれど事実自分の生命は少しずつ削られ続けて、寿命そのものが削られ続けて、この間の障気中和のせいではなくて、あとどれほどの時間変わらずに生きていられるかが分からない。
そんな死にかけの自分に世界は美しすぎて、だから違和感はずっと消えない。

◇◆◇◆◇◆

後ろ向きそのものの思考に飽きて、彼はふと閉じていた目を開けた。まったく、――非生産的な思考にどっぷり使ってしまうのは周囲が静かだからだろうか。というか、周囲に誰もいないこんな状況はそんなに久しぶりなのだろうか。
言われたことしかこなさない、下手すると指示のときに逆にいらない説教まで飛ばしてくる、あの調子もののアルビオールパイロットやら盗賊崩れ三人組やら、そんなものたちと一緒にいることにいつの間にかそれほど慣れてしまっていたのだろうか。

事実と認めるには悔しいというか情けないそれにフンと鼻をひとつ鳴らして、つきつめたなら確実にもっと情けないことに気付かないふりをして、少しばかり集中する。
……本当は、いつも思考の邪魔をする要因は他にあった。
それが今沈黙を守っているのがきっと落ち着かないなんて、そんなはずはない。
そもそも「それ」を遠ざけていたのは彼自身で、まさかそんな、自業自得とかそんなことは。

◇◆◇◆◇◆

「……騒ぐなレプリカ」
いつもは思考だけの会話を、周囲に誰もいないからこそ声に出してみる。考えなしの会話の相手、彼自身の劣化レプリカは、そんなこと思いつきもしないのかそんな余裕がないのか、毎度毎度声に出しているようだけれどそれは彼にとってどうでもいい。
ただ。何やかや騒いでいる気配はずっとあって、わざとそれをいつもより深い場所に沈めて無視していて、けれどどうにもうざったいので仕方がなく回線を繋いでみれば。
変に飛び跳ねるような、たとえるならスキップさえするような浮かれた思考が一気に遅いかかってきた。

――あ、アッシュ……! ひ、久しぶり……てこともないか。
いてて、などとうめいている気配もあるけれど、毎度のことなのでそんなことは気にしない。気にしてなるものか。
――あ、ていうかもしかしておれ、自力で……、
「うぬぼれるな劣化レプリカ風情が。おまえに落ち着きがないからわざわざ繋いでやったんだ。……何かあったのか」
いいながらさらに意識を集中したなら、特に目を閉じているわけでもないアッシュの視界にふと風景が二重に映る。もちろんそれはいうまでもなく、現在回線を繋いでいるレプリカの視界で――アッシュのみる限りとくに変わったこともなく、どんな偶然なのか今彼がいるのと似たような草原に、どうやらいるらしいと分かった。
けれどあれほど騒いでいた、それもどうやら嬉しいからこそ騒いでいた、その要因になるようなものは、
――……ちぇ、
がっかりしたような舌打ちは心底どうでもいい。次の瞬間何ごともなかったように浮上するのんきさに、深く追求する気も失せる。ただ、

ただ不意に視界いっぱいに迫ったのは、風に揺れる花――単なる雑草が咲かせた、小さな小さな花の群生で、

――あのな!
痛みを忘れたのか、弾むような思考が、
――花! 花が咲いてんだよ!!
視界のままの説明をする。
「……何を、」
わけが分からない、たかがそれだけをなぜあそこまで大騒ぎするのかと呆れる気力さえ、
――すっげえな! 障気……消えたのってたかだか数日前だってのに、もう、こんなに花が咲いてる。ひょっとしたら障気が出てる間も咲いてたのかな、もしもそうならそっちもすげえよな!
「……だから貴様は何を、」
道端に咲いていようが枯れていようが、通りかかる誰もが気にしないだろう、ひょっとしたら通りかかることさえないかもしれない辺鄙な場所に咲いた、たかが小さな花。ついにいかれたかと腰が引けるアッシュにまるで気付かないで、ただただ嬉しそうにまくし立てる。
――アッシュのおかげだな!
「…………は……?」
――障気が消えて花が咲いて、ひょっとしたら前から咲いてたかもしれねーけど、障気が消えたからおれが気付けた。アッシュのおかげだよな!
嬉しさそのままの、これ以上ない素直な声が――思考が、
――だからお礼を言いたくてさ、あのさ、アッシュ、

「馬鹿げたことをいちいち騒ぎ立てるな!!」
気付けば怒鳴っていた。周囲に誰もいないとはいえ、気付かないうちに声を荒げていた自分に気付けば面白くなかった。もちろん怒鳴った直後に回線は切っていて、ざわめきが消えないこの感覚は、まだ向こうは何かを伝えたがっていることを示していたけれど、もちろん改めて回線を繋ぐ気など欠片も浮かぶはずがない。
「……チッ、」
舌打ちをひとつ、思考を真っ白にする勢いで直後彼はずかずかと草原を突っ切ろうと早足で歩きだしていた。フォローをしてくれる誰一人いないこの状況で、けれど今は敵が出てきてくれないかとそんな風にさえ思っていた。

◇◆◇◆◇◆

彼が価値を分からない、たかが野に咲く花の群生に。
あれほど、できないくせに回線を繋ごうとするほどレプリカが浮かれた。
回線を繋いでいない今でさえ、心底喜んでいるのがどこかつながった彼には分かる。
けれどあんな花ごとき、咲いて何が嬉しいものかアッシュには分からない。
障気中和以降ひたすら後ろ向きにいじけていた彼と、その間に些細な喜びを見つけて彼にまで報告しようとしたレプリカと。

分からない、分からない、分からない。
――なぜ俺は、
――今、こんなにも、
――……惨めな気分になっている……?

そして立ち止まって意味もなく見上げた空は、ただどこまでも澄みきって青かった。
なんてことのないただそれだけで、無性に心がざわめく。

その感情の揺らぎの意味さえも。
……分からない、それはこんなにも、

―― End ――
2007/08/20UP
その他+CP
OFP
中国語・無断転載禁止 ハングル・無断転載禁止
un beau jour
[最終修正 - 2024/06/27-10:26]