いとしいいとしい、いとしい娘。
妹のような、――あるいは、
「……少し、休みましょうか?」
「そうだな」
ふと、先頭を歩いていた彼女が声を上げた。その脇にいた半妖精がうなずいて一行は足を止める。時の流れない夜空に似たきらめきの中、みなに微笑む少女に彼女も微笑みかけた。
最終決戦に向けて、塔の主――あるいはこの新しく不安定な世界の主を求めて、一行はただひたすら上を上を目指していた。階を変えるごとに景色の変わるこの世界は、創造主の趣味なのだろうか。ひどく落ち着かない。
良い悪いではなくて、こんなところにも相容れない点を発見したとシルメリアはぐるりと周囲を見渡す。
そして、ふと振り向いた。
「……どうかした?」
そこには先日までシルメリア自身でもあった少女がいて。つい先ほど解放されてからはじめて自分ではない存在として見えた彼女は――アリーシャは、淡く微笑んでいる。
「調子は、どうかなって。……そう思って」
「心配しなくても平気よ? あなたのマテリアライズは、完璧だわ」
「いいえ、そうではなくて……捕まっていて、ホムンクルスの内にいて。わたしが気にしているのは、そっち」
「ああ」
やさしい気遣いが嬉しくなって、嬉しい、などと思う自分に内心驚きながらシルメリアは微笑んだ。こんな世界にも流れる風にさらわれる髪をおさえて、神にもきっと不死者にも、人間と同じ気遣いを見せるやさしい彼女がいとしい。
「――そうね。無理に仮初めの不安定な肉体に捕らわれて、かけられた負荷はさすがにまだ完全には回復していないわ。あの男はこの世界を創るのにわたしの神力も使ったし。
けれどアリーシャ、私は神よ? だから大丈夫」
「そう……? でも、無理はしないでね。ミッドガルドに戻って休んでもいいの。……シルメリアには、アスガルドの方が休めるのかしら」
無知だけれど、本当になんてやさしい言葉だろう。こうして別の存在になって、本当に強く強くそう思う。何ていとしいのだろう、と強く思う。
「どこにいても変わりはないわ。……これは、時間を経れば治るから。だから、どこにいても同じなの」
「……わたしにはどうにもできないのね?」
淋しくかげった蒼に、哀しまないでと首をふる。
「もう、たくさんしてくれたわ。こうしてあなたとまた会えて、それだけで十分。
――ありがとう、心配してくれて」
フレイあたりなら、また激怒するだろうか。神が人間に感謝するなんて、何度も礼の言葉を口にするなんて。
けれど、とシルメリアは思う。
――はじめて人間のように深く実感したこのいとしさを、人間のように伝えたいと思ってしまったのだから。
――人間のように感謝しても、良いではないか。
音もなく生まれた風に、そしてアリーシャの髪がさらわれた。いたずらな風はそれだけで止んで、少し乱れた金の髪をそっとシルメリアは整える。くすぐったそうに身をすくめた少女に、くすりと笑みが口に浮かぶ。
「こんな風に、あなたに触れる日が来るなんて思わなかったわ」
「それは……」
「あなたは、私だったから。……少しだけ、この事態に感謝しても良いくらい」
「……シルメリア」
「冗談よ。さすがにね……けれど、本当にありえないことだと思っていたから」
無理にアリーシャの内に転生させられて、魂の奥底に眠ることもできず、浮上した意識はおかげで宿主を悪魔憑きに見せかけた。その危険性を認識していて、それでも意識があった以上手出ししたのは、彼女が死に囚われるまで自分は彼女から離れることなんてできないと思っていたから。
心底、そう思っていたから。
「――アリーシャ」
「なあに、シルメリア?」
「……いいえ。……そうね、今ではなくてこの闘いが終わったなら、言うわ」
「そう?」
――じゃあ、ますますがんばって勝たないとね。
華やかな彼女の笑みは愛らしくて、――そしてシルメリアの知らない笑みだった。離れていた時間よりも、文字通り一心同体だった時間の方がずっとずっと長いのに。
――人間は、成長するイキモノ。
ああ、それはなんて真実なのだろう。
――伝えたかったのは、伝えられなかったのは。
――感謝と、謝罪。
――ありがとうは伝えた、伝えることができた。
――けれどごめんなさいは、
――……伝えたい気持ちよりも、それを恐れる気持ちの方が大きくて。
あなたの人生を狂わせてごめんなさい。あなたからすべてを奪ってごめんなさい。
すべてはオーディンの策略でも、そう、たとえばただの村娘に転生さえしていれば、たとえばおとなしくあなたの内で眠ったふりさえしていれば、ディパンは滅ぶことなどなかったかもしれないのに。あなたから父も母も奪わなくてすんだかもしれないのに。
平穏な人生を知らずに育ったあなたから、最後にあなたに残った生さえも。
奪わなくて、すんだかもしれないのに。
いとしいいとしい、いとしい娘。
妹のような、――あるいは娘のような。
「――シルメリア」
「何、かしら……?」
髪を整え終わって引いた手を追うように、目を開いたアリーシャが呼ぶ。小さく首をかしげて、愛らしく笑う。
「ありがとう」
「……え……?」
「髪」
「ああ……そんなこと、」
「あと、」
シルメリアの知らないアリーシャが、それでも何にも増していとしい少女が、
「――あなたがわたしの内にいてくれてよかった」
心を読んだように、ささやいた。幸せそうに、嬉しそうに、輝くような笑みで贖罪を不要と笑った。
「――なぜ」
「シルメリアの言うことは、いつだって正しいから。それを、ありがとう。……それと、ごめんなさい」
続く言葉にシルメリアの息がつまる。まるで――まるで自分のこのこころを代弁するようなアリーシャに、息がつまる。
「あなたに頼ってばかりでごめんなさい。自分で何もしようとしなくて、そんな力なんてないんだって決めつけて、努力さえしなくて」
「ありー、しゃ……」
「あなたがいなくなって、考えたの。ずっとあなたのことを嫌がっていて、それなのに、あなたに頼りきりだった自分に気付いたの。
わたしにも、できたのに。できることがあったのに、あなたを嫌って、何もしようとしなくて、――だから、ね。シルメリア、あなたにありがとうとごめんなさいを、言いたかった」
いとしいいとしい、いとしい娘。
妹のような、――あるいは娘のような。
それでいて友人のような、もしくは、
――母のよう、かもしれない。
シルメリアにできないことをやってのけたアリーシャが、またひとつ笑った。こんなにも似ているのに、外見も中身も似ているのに、ヴァルキリーではないただの少女は、それでもシルメリアよりもきっと強かった。
言葉が浮かばなくて、シルメリアも微笑む。言葉にできない気持ちが伝わってほしいと、祈るように微笑む。
またひとつ、さやかに風が舞って。
いとしい少女が、その笑みが、きらめいているように女神の目に映る。
