もしも時間をさかのぼることができるなら。
そんなありもしないことを願った。

―― 雪眼

「――では」
表面的には丁寧に頭を下げてみせて、破壊と創造の女神が波紋のように薄れて消えた。美しい肢体にはありあまるほどのちから以上に、有能でさらに勤勉な女神のことだから、きっと大した時間をかけることもなく彼の指示をきれいに処理してくることだろう。
けれどそれまでは、彼女はここにはいなくて。彼女以外の神々は彼が呼ばない限りはここに――このヴァルハラ宮殿の謁見の間だか玉座の間だかにはやってくることはなくて。
「――……だー……」
だから彼は情けないだらけきったうめき声を上げると、身体から力を抜いた。ずるずると背がすべっていって、自分には不似合いだと自嘲するしかない豪華すぎる玉座からぎりぎり落ちない位置でなんとか止まる。
きらきらとまぶしいほどの光景を目にすることに疲れて、がくりと首をたれた。

◇◆◇◆◇◆

あの世界から持ち帰ったグングニルを手に自分は成長する神だと名乗りを上げて、それを周囲に納得させて、前主神の右腕だった女神にも自分がその座に成り代わることを了承させて――それからそれなりに経っていた。色々諸々あってありすぎて、その間に時間だけはどんどん流れて、ようやく最近ではあちこち安定してきたと思う。
この神々の地アスガルドも、一度は混乱を極めた人間たちの暮らすミッドガルドも。その他も。崩壊しかかった世界は、多分なんとか持ちこたえてその爪痕もだいぶ癒えた。水鏡が教える情報に嘘はないから、きっとそうだろう。
けれどまだまだだと、いつまでも気を抜くことはできない。主神なんて大層な肩書きは、つまり世界の使い走りだとしか思えなくて、こんな面倒なだけの役目とっとと誰かに譲りたいのに、譲ってかまわないと思わせる相手はなかなか見つからないしだったら自分で育てようと思ってもなかなか適当な人材も見当たらない。
それでも、面倒だもう知らないと、放り出すことだけは絶対にできない。
絶対にできないから、たまに怖い部下の目をかいくぐってこんな風に息を吐くこの時間だけは、あのころのままの情けないばかりの半妖精の姿をさらしても許してもらいたい。

――ルーファス。
耳に懐かしい声がよみがえる。うなだれた首、疲労に重く下がってきたまぶたの裏に、少女の姿が像を結ぶ。
時間の経過で、本当はもうだいぶ忘れてしまったけれど。それを認めてしまうくらい、あの時からはずいぶん時間が流れてしまったけれど。――それでも、青くさい初恋に酷似した感情だけは、彼女のことを思い出せば苦く甘く胸のうちを満たす。
……がんばってるよ。オレなりに、精一杯やってる。
それを見た覚えは、哀しいけれど何回もなかったはずだ。けれど脳裏に浮かぶ少女は今日も微笑んでくれている。それに語りかけて、自分の口元が多分笑みのかたちに歪んでいることを自覚して、いつまでも想いに捕らわれててごめんな、と続けて想う。

……道を、どこで選んだんだろうな。
……ひょっとしたらオレは今こんなトコにいなくて、きみも普通に人間として転生できていたんだろうか。
……何かが、どこかで違っていたら。
……きみは今もどこかに生きられたんだろうか。
――ルーファス。
微笑む少女に微笑み返す。――きっと今でもまだ、その笑みはぎごちないものに違いないと知っていたけれど。それでも、他の誰でもない想像の中の彼女にだけはいつだって微笑みを見せたくて。

……分かっている、こんな想像無意味だなんて。「今」が間違いだなんて思わない。
……それでも、特に最近想うんだ。
――どこかで違う選択をしていたら、なんて。

――……ありえないことを、どうしても想うんだ。

◇◆◇◆◇◆

成長する神として、それなりのちからを手にしたはずなのに。世界は回り続け、人の魂は彼の手をすり抜けて転生をくり返し、消滅した少女の魂を復活させることはかなわなかった。
ヴァルキリーたちの行方は今も知れない。
世界は回っているから、彼女たちは消滅していないでしょうと主神補佐の女神は平然と言うけれど。その言葉から世界にとってのヴァルキリーの意味を探るよりも前に、人間でしかない少女のことを想ってしまってそれを追求できないまま、はたしてどれだけの時が流れたのだろう。

カミサマはなんでもできるなんて、そんなこと信じられるような人生を歩んでいたわけではないけれど。漠然と想像していた以上に、最期の瞬間あの男がつぶやいた通りに、神は万能からほど遠かった。
たった一人の人間の少女に頼らなければ、この世界は崩壊していたことを知っているのに。その少女を救おうとしても、その方法さえも分からない。

◇◆◇◆◇◆

だったら、過去にさかのぼってあの時ああしていたらどうなっていただろうかと。自分でも分かっている馬鹿な妄想に、最近彼はよく捕らわれる。
万能ではない神は、過去に戻ることもできない。
分かっているのに、それでも思ってしまって。
あの時、城から出るときに彼女を無理にでも突き放すことができたなら。彼には通り抜けられた壁を彼女が通れなかった時に、ここまでだと告げることができたなら。はじめて彼に良くしてくれたあのエルフの女性の言葉に、どんな可能性も見出さなかったなら。グールパウダーが見つからなかったら、それを彼女から取り上げていたなら。
やっと辿り着いたユグドラシル、そこで待ち構えていたオーディンを。
もしもあの時の彼に、前主神を倒すだけの力があったなら。
怪我をしていようがなんだろうが、三女神の依り代を不死者王に任せていたら。

あの時はそれが最上で、他に道がなかったはずなのにもしも想像して。人間の寿命はとうに過ぎ去って、普通の人間なら数回どころではなく転生をしているだろう今になって、彼女の魂がこの世界に存在しない淋しさをかみしめる。
転生すればすでに別人、神になった自分は変わらないけれど人間の少女はどんどん変わっていく。たとえあの時の未来が今ではなくて、少女が存在を続けていたとしても、自分を置いて彼女は先へ先へと行ってしまったはずだけれど。分かっているのに彼女と同じ魂を持つ存在が今この世界のどこにもいない事実が、ただただ痛みをともなって彼の心に広がっていく。

――ルーファス?
……分かってる、ただの泣き言なんだ。
少女の笑顔が少し曇って、ああ、たしかこんな表情をよくしていたなと思い出せば懐かしくて切ない。後ろ向きな自分の思考が懐かしいものを連れてきて、これは果たして喜んでいいものだろうかと思考がそれていく。
笑った顔はあまり見なかったはずで、怒った顔よりも哀しそうな顔の方が印象に強い。楽しそうな笑顔はなんとなく見た記憶があるのに、いつどこでどんなメンバーだったか思い出せないし、そもそもやはり顔の造作さえずいぶんおぼろげで、ただきれいな顔立ちの華奢な女の子だったことだけは今も鮮明に覚えていて、
そんなただの人間の女の子に、平凡な人生というものをほんのすこしの間でさえ体験させてあげることさえできなかった、あのころの自分の不甲斐なさが苦い味を胸に満たす。

◇◆◇◆◇◆

そろそろ、あの有能な女神サマが帰ってきたりするのだろうか。
そろそろ、せめてちゃんと背筋をのばして待っていないとまた説教されてしまうだろうか。
時間の流れる感覚が薄いなりにふと思ったのは、だらけきったこの姿勢で思考に引きずられて果たしてどれだけ経った後なのか。思っても動かない身体を鞭打って、せめて伏せていたまぶたを上げて、眼に痛いほどきらきらした視界の中に少女の姿が一気に薄れて消えていく。

もしも時間をさかのぼることができるなら。そんなありもしないことを願った。
どこもまったく万能ではない神のちからの限界を思い知って、

――ただきみに、こんなにも逢いたい。

―― End ――
2008/01/28UP
その他
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雪眼
[最終修正 - 2024/06/27-11:22]