上機嫌の笑顔に対して、
いったい何を返せばいいものか、そう、そのとき見失ってしまったから。
「きれいなものねぇ……これで不死者どもさえ湧いて出なけりゃ、ヴィルノアの恋人たちに格好のデートスポットになってたでしょうに。
……ねえ、アリーシャ?」
「あ、はい……そうですね、きれいですね」
半ばほど水につかった白亜の神殿、何回襲い掛かる不死者を退けたのか、ふと振り返った長身の女がにこりと笑った。露を払った剣を鞘に収めながら、たぶんたった今の戦闘に乱れた息が落ち着かないアリーシャが、あわてて顔を上げるとこくこくと首を上下にふる。
「土と埃ばっかりの山岳宮殿よりも断然景色が……って、ああ。疲れた? 休憩しようか」
「だっ、大丈夫です! すぐ、落ち着きますから……!」
「――おーい、この先、ちょっと休めそうだぜ! なあ、休憩しようぜ休憩!!」
いつの間に偵察に走っていたのか、足取り軽く戻ってきたルーファスがまるでだだっこのように主張して。明らかに他に気を配る余裕のない少女以外の全員がやれやれとあきれたけれど、いかにも疲労困憊の、それでも意地っ張りの彼女を休ませた方がいいのは誰の目にも明らかだったから。
「ほら、絶対アリーシャより体力あるあの緑頭がああ言ってるし。休める時に休んどいても罰なんか当たらないってば。あとちょっと、がんばって」
「あ、ありがとうございます……」
ほらこっちだと気楽な案内に従って、それでも周囲には気を配って、一行はぞろぞろと白い神殿の中を進んでいく。
「ここだここ。……アリーシャ、靴脱いで脚水にひたしてみろよ。気持ちいいから」
「え……?」
にこにことご機嫌全開のルーファスが、なぜか自慢するかのように指差したのは水路。素人の目にもずいぶん古いものだとわかるそれは、けれどそれでも今なお水路の役目をしっかりと果たしていて。流れる水は、どこまでも澄みきっている。
「脚、痛いんだろ?」
「そ……!」
「ま、あの山道にその前は草原で、なんだかんだって闘ってばっかだしあんましまともに休んでないしな。あんたががんばってるなんてじゅーぶん分かってっから、否定するなよ」
ひらひら手を振られて笑顔で言い切られて、アリーシャの困った顔がうつむいた。たぶん顔が赤くなっているのだろう、耳までなんだか熱いのが分かる。本当は否定したいけれど、仲間たちに迷惑をかけるのが心苦しいけれど、彼の言葉どおり本当は脚がだるくて痛い。――怪我は、していないはずだけれど。
うつむいてしまえば誰の表情も見えないけれど、たぶん全員の視線が集まっているのは分かる。なんだかちくちく視線を感じる。すぐにどうにもいたたまれなくなって、回避するためには素直にルーファスの助言を聞けばいいのだと分かっていて、
「…………はい」
なんだかやりきれない気持ちを抱えながらも、おずおずとアリーシャはうなずいた。しょんぼりしながら水路にしゃがみこんで靴に手をかける。――あら、私には気を使ってくれないの、いやあんたはオレよか全然元気そうだし、なんて会話を背後に聞きながら靴ひもをほどいていく。
「……あ、……気持ちいい……」
尽きることなく流れ続ける水は、山の湧き水ほど冷たくはなかったけれど十分冷えていた。指摘されてはじめて気付いた熱を持った脚をそれにひたせば、なるほどほっと息を吐く心地よさに包まれる。
「な、だろ?」
「はい、ルーファス……ありがとうございます」
得意満面の顔にアリーシャも微笑み返して、脚を遊ばせればぱしゃりと小さな水音が立つ。その脇にひょいとかがみこんだルーファスが、ふと握っていたものを彼女に見せた。見るよりも先になんだか独特の薬に似た香りが届いて、アリーシャはきょとんと瞬く。
「あー、薬草ってほどじゃないけど、民間療法レベルでちょっと聞きかじったことがある。
この葉っぱ揉んで脚にはれば、疲れが取れるとか何とか」
そういった分野は彼よりも、と、眼鏡の王宮魔術師の姿を目でさがせば、だから民間療法だって、と苦笑が降ってきた。
「気分的なもんかもしれないけどな、オレが前ためしてみたときは、確かになんか効いたような気がした」
「そう、ですか……?」
「少なくとも、ほら、オレの手がかぶれたりってしてないから毒じゃねえよ。……そんなに信じられないか?」
「疑っているわけじゃ、ないけれど……」
彼の手にある薬草と、のぞきこんでくる顔とを交互に見比べて。なんだかにこにこ嬉しそうな顔が不思議で、そちらにばかり注意がいってしまう。信じてもらえないなんて不快だろうにルーファスの機嫌は上々のままで、なぜそこまで上機嫌なのかが皆目わからないからアリーシャは途惑うしかない。
「ああ、でもあんたなら自力で癒しの魔法唱えられるから、そっちのが効くか」
「疑ってるわけじゃないんです、けど、」
――その、
言葉に詰まって、やさしい気持ちが嬉しいのにそれがいきなりだから反応に困って、おろおろしていると不意になにか音がした。景気の良いその音の正体が分からないアリーシャがゆっくり瞬くころには、笑顔だったルーファスの顔がなんだか引きつっていた。一気に見事に引きつっていた。
「……え、あの……?」
「嫌がってる女の子に無理強いしてるんじゃないわよ! っていうかその草普通ににおいがきつすぎるって気を回したらどうなの唐変木!!」
崩れ落ちたルーファスの、その向こうにあったのはなんだか無闇に迫力のある笑顔。いつからやりとりを聞かれていたものか、むしろ何をどう思われたものか、しっしっとばかりに犬のようにルーファスが追い払われる。
「…………殴る前にまず口で言ってくれ頼むから……!!」
「アリーシャはやさしいからそんなこと言えないわよ」
「いや、だからあんたが」
別に薬草のにおいを嫌がったわけではないけれど、においがきついのは事実で、どうやらそれに納得してしまったらしい彼はすごすごと追い払われた。持ち歩く気はなかったらしく、力の抜けた手から薬草がばらばらと水路に落ちて流されていく。思わずそれを見送ってしまって、はっと我に返れば先ほどまですぐそばにいた青年はずいぶん離れたところに移動していた。
「あ、の、ルーファス……」
「いいのよアリーシャ、こんな朴念仁ほっときなさいな」
「でも、あの、」
「あー、いいよいいよ、どーせオレがワルモノだよ」
せっかく、親切に色々教えてくれたのに。なにやら上機嫌でにこにこ話しかけられるのは、決していやな気分だったわけではないのに。もっと色々話したかったのにタイミングを逃がしてしまって、気付けば上機嫌だったのがすっかりむくれてしまっていて、そんなのにかまうなと迫力ある美女の笑顔が真正面に向いていて。
さらさらと水の流れの中に、もう薬草は見えなくなってしまっていた。
熱を持っていた脚はそのころにはずいぶん落ち着いていたけれど、ためすことさえできなかったそれが、彼の持って来てくれた草がなんだか気になって。
白い水路に濃い緑の草が見えないものか、アリーシャはそっと目で探してみたけれど。
彼の上機嫌と一緒に、やはりそれは、どこかに消えてしまっていた。
