「……ん……?」
自分の上げたかすかな声に、ネルの意識が浮上した。薄く開いて何度か瞬いて、とろりとまだ夢の支配下にある意識がなんだろうとぼんやり考える。
もう一度瞬いて、かすかにかしげた首の動きで目に映ったのは細い背中。まぶしいほどの月の女神の長女がそのまま彼女をさらっていきそうな、そんな儚い雰囲気漂う背中だった。
さらに瞬いたネルから、しつこく残っていた眠気がゆっくりと退散する。
「……眠れないのかい?」
ひそめた声に驚いたのか、細い肩が大げさなほどに震えた。ゆるりと振り向いた彼女の表情は逆光になってよく見えなかったけれど、ネルはできるだけやわらかく笑いかけてみる。
表情は見えにくい、けれど影の中に浮かぶようなきれいな翠の眼にはどこか怯えの色がある。表情こそ見えにくいけれど、彼女のまとう雰囲気はいつもの強気な小娘のものとは違う。
だから、笑いかけて。
ネルは影になった彼女と目を合わせたまま、ゆっくりと身を起こす。――一気に跳ね起きたなら、まるで彼女がどこかに消えてしまうような気が、した。
「何かあったかい?」
「――いいえ、特には何も。モンスターの姿も見当たらないわ」
「そうかい」
それはよかった、ささやきながらネルは乱れた髪を手櫛で整える。くつろいで見せる彼女に警戒心と一緒に興味もなくしたように、ふい、とまた顔を外に向けた彼女の動きを追って、長い髪がさらりと揺れた。
現在地、旅の途中の名もなき地。そこに忘れ去られたようにたたずんでいた廃屋。午後もなかばを過ぎたころに見つけたそこは、野営場所にするのにもってこいだった。陽のあるうちに食料の調達と燃料の調達と周囲のモンスターの確認と、そして廃屋のざっとした掃除を終えて。屋根があるところで寝られるのはなんて幸運かと、ところどころ屋根の隙間から星がのぞくほこりっぽい廃屋に、けれどそれを残してくれた先人に感謝して眠りに就いた。
体力の回復具合と星や月の位置から大体の時刻をはじき出して、ろくに休んでいないはずの青髪の乙女にネルはまた笑いかける。
「……明日もまた、歩くよ。この先がもしも今日よりも道が悪かったら――体力勝負になったなら、あたしたち女は弱い」
「分かって、いるわ。――加えるなら、慣れと職業と、あなたよりも私の方がきっと歩が悪い。ちゃんと休まなきゃみんなの足を引っ張ることなんて、分かってる」
「そう。……眠れないのかい?」
出会ったのは、そう昔のことではない。お互いの顔と名前と得意と不得意と、表面に見せる性格くらいは把握できているつもりだけれど。
ネルには正直、まだ彼女のすべてが、その輪郭さえも見えていない。
事務的なものいい、冷酷ともとれる冷静な判断力。あの金髪の大男が属する組織をまとめ上げるリーダーと聞いて、それを納得させるだけの覇気を持っている。そして施術には不可能な、不可思議な術を操ることも知っている。
――けれどそれは、彼女の――マリア・トレイターという一見折れそうに細い乙女の事実ではあっても、すべてではない。それを知るには時間をかけて互いに歩み寄るしかないし、そうしたところでひと一人のすべてを知ることなんて、ただのひとの身には叶わないことだけれど。
それでも、マリアがどこか危ういところを持っていることをすでにネルは把握していたし、その危うさが表面に出ているときに鉢合わせて放っておけるような性格を、ネルはしていなかった。
夜、ひとりで月を見ている背中はそのまま闇に光にとけてしまいそうな儚さがあって、手をさしのべずにはいられない。――それが甘いと苦笑される自分の欠点だと知っていても、ネルには気付いてなお見てみぬふりをすることはできなくて。
「――何が、見えるんだい?」
毛布ごと彼女に近寄って、月の女神当人かと思わせる凛とした美貌を脇から眺める。想像していたような夢見るような甘い目を彼女はしていなかった。驚きに目を見張って、けれどネルはこの目を知っている、と思う。
正体が分からなくて、揺らぎもしないその視線をたどって。――廃屋の、すでにがたがたにかたちだけを残す窓から見えるのは、一見なんでもない夜の風景。
「マリア……?」
「なんでもない、夜の風景よ。月があって星があって大地が広がる。豊かなみどりがあって虫の声が聞こえて――けれど、」
ネルの目には平和にしか見えない同じ風景を見ながら、けれど彼女の目に浮かぶのは哀しみの色。波紋に揺れる水面の像のように、いっそう頼りなくなる存在感。
「まり、あ」
「……けれど、破壊の痕が残っているわ……」
血を吐くようなため息に似た、ささやき。いわれて目をこらしても、ネルには見えないそれを見つめて、マリアはゆるりと首をふる。長い髪がその動きに涼やかな音を立てて揺れて、ネルの目にはそれが彼女の涙のようにさえ見える。
「破壊……星の船の、かい?」
先日のあれは、アリアスを中心に無慈悲に無造作に降りそそいだ。ここはそこからずいぶん離れているけれど、ひょっとして流れ弾のようなものがやってきたのだろうか。ネルの知らない技術のことに詳しいマリアの目には、そういうものが見分けられるのだろうか。
思ってつぶやいて、
――ああ、彼女は王なのだと不意に思考がはじけた。
貴族とはいえ民の目線に立ってしかものを見られない自分とは対照的に、マリアはどこまでも王者としてしかものごとを見られない。目先に捕らわれる甘い自分よりも、大局的にすべてを動かすことで、隙間からこぼれ落ちたものを――けれど見逃しているわけではない、全力で悼んでいる。
仕方のないことだと、口では言うだろう。喪ったものを嘆く人間に対してためらいなく言い放ち、その憎しみを一身に負うだろう。
けれどどんな憎しみよりも怨嗟よりも彼女を否定するのは、彼女自身の心。
最上の策をとった結果だと微塵の揺らぎもなく言い放つ反面で。
あるいは、自分にはまったく関係のない闘いの痕を見てさえも。
助けられたはずだ、とるべき策は他にあったはずだ、そうすればこの犠牲は回避できたと。
誰よりも強く強く自分が声を上げる。迷いを揺らぎを誰にも勘付かせない一方で、自分自身は自分の内面に鋭く昏い爪を立てる。
哀しいほど強い彼女は、きっとその分自分自身を傷つけている。心を刻み自身の流した血にまみれながら、けれど傷を負わせているのが他でもない自分自身だから逃げることも身を守ることもできない。
さらさらと流れる青い髪が涙のようにネルの目には映るけれど、今のマリアは泣かない。きっと、泣けない。感情の揺らぎにその目まで揺れていても、彼女は泣くことはない。泣くだけの資格は自分にないと、たとえ誰がそれを否定しても彼女自身はその否定を突っぱねる。握りしめた拳が爪をてのひらに食い込ませても爪がてのひらの皮を突き破っても、そんな肉体の痛みを軽く凌駕する精神の痛みにさらされていても。
それを痛いとは言わない。
絶対に、言わない。
――言うことが、できない。
「――マリア、寝よう? 明日も今日の続きなんだ。終わりなんかない。せめて休んで心と身体を少しでも回復させて、闘いに備えないと」
――マリアの闘いに、少しでも備えないと。
「分かって、いるわ」
「眠れないのなら、術でもかけてあげようか? 夢も見ない深い眠りをあんたにあげるよ」
彼女が、そして振り向いた。先ほどは月あかりの逆光で見えなかったその顔は驚きに目を見開いていて、けれどひとつ瞬くとほんの少しだけはりつめたものがゆるめられる。
「――なんだか、あなたに殺されるんじゃないかって思ったわ」
「そんなつもりはないよ?」
ことさらに笑みを浮かべて、身体に巻きつけて会った毛布で細い肩に包んだ。どれだけ夜気にさらされていたのか、すっかり冷え切っていた身体がこんなものであたたまってくれたらと、祈るように思う。
「マリア、――癒えるよ。あたしたちは生きてる。あたしも、あんたも、……この大地も、ひとも。生きてるんだ。傷は、だからいつか必ず癒えるよ」
「うん、……分かってる。知ってるわ」
こてん、と軽く額が身体が預けられて。ネルの首筋に一瞬触れた吐息は、きっと彼女の笑みで。
「ありがとう。――おやすみなさい、ネル」
「――うん、マリア。おやすみ」
誰よりきびしくてやさしくて儚い彼女に、心からの笑みを。
そのために必要な、この地の平和を。
――せめて、安らかな眠りを。
やがて上った寝息にネルの頭にはじけたのは、……きっとそんな淡い願いごと。
