「……うわ、」
名前を呼ばれたような気がして、ふと目線を上げた瞬間脳みそがぐらりと揺れた感覚があった。たちの悪い病気とかうんざりするくらいの出血による貧血とか、そんなものではなくて。お馴染みというほどではないにしろ、過去何回か体験したことのあるめまいだった。
「どうしたのよフェイト」
「いや、ちょっと……」
呼び声は空耳ではなかったようで。ゆらりと近寄ってきた女性に、フェイトは力なく右手を上げる。浅く吸って吐いて、少しずつ呼吸を深いものに変えていって。何度か瞬きをくり返したなら、ぐらついていた世界がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。――完全に、とはいえないけれど。
「うー、酔ったみたいだ」
「……そりゃ、あれだけ呑めばね」
そうして上げた目線に入ったのは、青。マリアが華やかな色のグラスを片手に、ほんのり頬を染めてそこにいた。
誇張ではなく世界の命運をかけた死闘がいつの間にかはじまって、平凡だと信じていた自分がその中心でみんなを率いていた。なりゆきからはじまったいっそ英雄譚めいた冒険の旅は、けれど実際はそれほど格好いいものではなく、先日命からがら何とかこちらの勝利で幕を閉じた。
展開上ただ漂着しただけの辺境惑星が、いつの間にか自分たちの基地扱いになっていて。
闘いが終わったこと、こちらが勝利したこと。散々協力してもらったお礼と、これからのこと。エリクールのふたつの王にそれぞれ挨拶して回って、宇宙から来た面々は明日この星を発つ。その前に、最後だからと――今さら強制力は感じないものの未開惑星保護条約もあるし、本当にもう一生会えないかもしれない――無礼講で騒ぐことになった。
落ち着いて料理を食べる暇なんてないほどあちこちから呼ばれてそのたびに乾杯させられてなんだかんだと話が盛り上がって、食べた記憶はないものの呑んだ記憶は山ほどあって、気が付けば周囲はだいぶ人数が減っていたりつぶれて身動き取れなくなっていたりした。いつも冷静なマリアも一見いつもどおり冷静なようでいて、実際は幾分呑んだのだろうほほが赤い。もちろん呑みまくった自分はもっと赤くなっている自覚はある。
「あ、で、なにかあったのか?」
「別に? 今日はろくに話してなかったわねって、さっき思い出しただけよ」
くいーっと一息にグラス――多分ジュースか、もしかしたらカクテルか――をあけてから、顔色以外はまるでいつもと同じような調子で肩をすくめて。けれど確かに酔っているように、いつもなら決して踏み込んでこない近距離――吐息がかかりそうな至近距離までぐっとつめてから、すっと目が笑う。
「ねえ、外出ない? ……騒がしいわ」
それが他の女性ならうっかりときめいたかもしれないけれど、それがマリアだから。言葉通りの意味しかないと分かっているので何ごともなかったようにそうだねと笑い返して、やはりふらつく足でどうにか人を踏まないように、床を浅瀬のように移動する。
ちらりと振り返ったならマリアも同じことをしていて、なぜか安心した。
「……星、だいぶ減ったわね」
「地球帰ったら、なんだかより実感しそうだよ」
エリクールでの星座など知らないけれど、マリアがいうので天を仰いだなら、ところどころごっそり黒が広がっていてなるほどとうなずいた。あの社長めだいぶ景気よくやってくれたなあと、改めて思う。天文学者ではないので、見た目以上にどれだけ自分に影響が出るかなんてことは、分からないけれど。
「地球に帰ったら……ね」
「帰るよ、――母さんもいるし。大事なものとか置きっぱなしだからさ」
「そのあとはどうするの?」
「……それなんだよな、大学が無事かも分からないし」
他愛のない会話をしながら手に持ったビンを眺める。会場を出るまぎわ見つけた、もったいないからと結局最後まで封を切らなかった高級酒だった。呑むかい? とビンを掲げてみせれば、まだ呑むの? と目が笑いながらマリアのグラスが差し出される。コルクを引き抜いてビンをかたむけて、勢いがよすぎてせっかくの酒が少しこぼれて、ともあれなみなみ注がれたグラスをマリアが軽く掲げた。
こちらはグラスなんて気の利いたものを持っていないから、ビンごと。かちりと今日何度目かも分からない乾杯の仕草をして、ラッパ飲みで何口か飲み込む。
「……あー、失敗したな」
「やっぱりグラスもってこようかしら?」
「んー、いや、いいよ。……せっかくの高級酒なのに、酔いが回りすぎて味が分からないってだけなんだ」
「それは失敗ね、もったいないわ」
言いあって、笑って。――ひょっとしたら、もう最後かもしれないとふと思う。
マリアの今後の予定は、聞いていない。訊く機会はいくらもあったけれど、先ほどフェイトが訊ねられたみたいにたとえば今だってきっと気軽に訊けるだろうけれど、何となくそうしたくなかったから、マリアが今後どうするのかはフェイトは知らない。
銀河連邦がしっちゃかめっちゃかになった今、反銀河連邦組織のクォークの価値はどんなものだろう。そこのリーダーの年若い娘の価値は、この騒ぎの結果跳ね上がったのだろうかそれとも下がったのだろうか。
フェイトが漠然と地球に帰ると決めたように、マリアにもマリアの居場所がある。話に訊いたところによると――故郷と呼べる場所はひょっとしたらないのかもしれないけれど。けれどそれでも、たとえばクラウストロだって第二の故郷みたいなものだろうし、ディプロがマリアの今の居場所なのは確実で。ひょっとしてムーンベースが故郷なのかもしれないし、そうすると今後何かの拍子で訪れたなら、ばったりマリアと出くわすのかもしれない。
酔った頭がぼんやり思って、具体的なことなんて正直何も思いつかなかったけれど、何年かあとにマリアにばったり出会ったらどうなるだろうかと、芋蔓式に思った。
きっとマリアは、なんでもないように、あら、とかつぶやくだけだろう。自分は頭の中がまっ白になって久しぶりとか当たり障りのないことしか言いそうにないし、幼馴染なんかがその場にいたなら感激で抱きつくかもしれない。自称保護者はよぉとか片手を上げるに決まっているし、赤毛の女隠密は――、
ありえない未来を想像していることにそこで気付いて、フェイトは瞬いた。理屈は分かっているのに感情も納得しているのに、実感が湧かない。どうしたのと目が問いかけてくるからごまかしのためにビンをあおって、一気に流れてきた酒がのどを灼いて痛い。
なんだかじんわりにじんで視界がはっきりしないのは、呑みすぎのためか、それとも痛みに涙が浮かんだのだと。そういうことにして。
「――たとえば十年後とかにさ」
「なに?」
「またここに、みんなで集合したいよな」
「馬鹿ね、そんなの無理に決まってるじゃない」
「そうでもないだろ? ちゃっかりまた脱出ポッドが墜落するかもしれない」
「……ちゃっかり?」
「二度あることはって、言うじゃないか」
「そうね」
マリアが笑いながら一口含んで、本当に軽く、気のせいみたいに小さくうなずいたのが見える。
「じゃあ、これから乗る船の救助ポッドには、武器が標準装備ね?」
「武器のデータ入力した記憶端末、持ち歩こうかな。レプリケーターでちゃんと作れるように」
「条例違反で捕まるわよ」
「条例っていえば……二十歳未満飲酒禁止だろ」
「今さらじゃない。あと、この星にそんな条例なかったし」
「……いつの間に調べたんだ?」
「ひみつ」
中身のない話に二人で笑いながら、ただ意味もなく酒をあおいだ。いろいろな話をして、どれもこれも中身はなくて、でもただこんな風に過ごす時間も悪くないと思った。
冷酷なまでに冷静な、たった十九の彼女の笑顔が、どこまでもおだやかだったから。華やかだったから。
だから、それだけでもう十分だと思うことにした。
明日、この星を発つ。
フェイトは地球へ、マリアは――たぶん地球ではないどこかに行く。先ほど話に出した十年後の集合なんてきっと夢のまた夢で、そもそも寝て起きたなら酔っ払いの思いつきのそんなこと、きれいさっぱり忘れているかもしれない。
明日、この星を発つ。長くても数日のタイムラグで、みんな散り散りになっていく。
恋人とかではないけれど、――ずっと一緒にいられるものだと。旅の間に育ってしまった間違った認識を、変更していかないといけない。波乱万丈の人生がたまたま重なり合っただけなのだと、自分を納得させていかないといけない。
けれど、そんなことは今はどうでもよくて。
限られた時間をただおだやかに過ごしたいと、思うから。
「マリア、」
「……なに?」
「かんぱい」
「ふふ」
高級酒は、けれどへべれけの自分にはもったいない、のどを灼くだけのただの液体と化していた。むせ返りそうになりながら――ときどき本当にむせながら、
酒と一緒にこの届かない願いも、……ただただ無理にも呑み下していく。
