こいつなら反射で受け取ると思った。
予想どおり片手でそれをつかみ取り、長い前髪の向こうで紅がいぶかしげに細くなる。
一見普段とまったく同じように工房を出たネルは、周囲に人影およびそれ以外の気配がないことをざっと探ると、そのまま出てきたばかりの工房のドアにもたれかかった。うちがわが干上がるような奇妙な感覚を覚える胸元をぐっと握りこみ、まるであえぐようにひとつ深呼吸。
――胸焼けする、とはよくいったものだ。
ただあの工房内にいただけなのに、吐き出した息さえ甘いような気がする。むしろチョコレートで、肺がコーティングされたような気さえ。服は洗濯して自分は風呂にでも入って、たぶんそれでこの甘いにおいは消えるだろうけれど、あとから帰ってくる女性陣はきっと今の自分以上にチョコレートのにおいをしみこませているだろう。
甘いものがあまり好きではないネルにとって、それは少しばかり嬉しくない。
ともあれ。
自分の右手を、服の胸元をつかむ手とは逆の手を、見下ろした。目の前で包装される様子を見ていてさえ、どこかで買ってきたものにしか見えない、包装・中身ともに立派な箱。ネル自身は甘いものをあまり好まないけれど、これを渡したならまんざらでもない顔をするだろう男が脳裏に浮かぶ。
もう一度深呼吸して、次の瞬間にはなんでもない顔になって。ネルはとりあえず宿に向かうことにした。
チョコレートに敗北しました、なんて情けなさすぎて誰にも悟られるわけにはいかない。
ばれんたいん、という祭らしい。
恋仲の相手に、それに限らず親しい異性に、チョコレート菓子を贈る祭。
こんな記念日でもなければ何気ないプレゼントなんて意外とできないですからねー、などとつぶやきながら生クリームを攪拌していた娘の手際は、何気ないプレゼントという割には気合に満ちていた。
馬鹿げているわよね、などといつもどおりに冷静につぶやきながら、けれど真剣にはかりをにらみつけていたもう一人の娘も、その馬鹿げた祭に便乗する気はあるのだろう。
わけがわからないながらも一緒に工房にこもって、言われるままにあれこれ手伝いをして、けれど大量のチョコレートは甘いものが得意ではない人間にはちょっと強敵だった。だんだん気分が悪くなってきて、もちろん同性でわいわいお菓子作りはネルにも楽しいものの、だんだんその楽しさを満喫できなくなってくる。
――ごめん、ちょっと抜けるよ。先に宿に帰ってる。
――わかりました。ネルさん、手伝ってくださってありがとうございます。あ、そうだ。これ持っていってください。ちょっと待っててくださいね、すぐに包みます。
――ソフィア、そんな、別にちゃんとしてなくても……、
いいというかそもそも別に誰かにあげたいから手伝っていたわけではなくて、
――まあまあ。はい、どうぞこれ。……リボン、中途半端にあまっちゃった。
――だから別にいいっていったのに……。
――どうせですから! あ、そうだ。
「……まあ、せっかくもらったんだし。宿について最初に会ったやつとかに押し付ければいいか。それに少し落ち着けばあたしだって食べてみたくなるかもしれないし」
ごちりながら道をいく。これを持っていけと言われたときに脳裏に浮かんだ顔とか、工房を出てその箱を見下ろしたときに脳裏に浮かんだ顔とか、そんなものは気のせいだ。
それにパーティ中男性陣の人数分のイチ。宿に戻ってその顔にまっさきに会う確率は高いというか低いというか。
「……だから別にあいつに渡したいってわけじゃないし!」
誰に対していいわけをしているのか、というか何を自分にいいわけしているのか、ともあれ浮かんだ顔を頭を振って追い払う。
体調が戻りきっていなかったので、ちょっとくらくらした。
「……そんなことより、お茶でも飲んでこの胸焼けどうにかする方が先だね……」
誰も聞いていないとはいえ、ずいぶん独り言が多い。そんな自分がずいぶん情けない。
――だから特定の男にあげるつもりなんてなかったのに。
――なんでまっさきにこいつに会うんだろう。
「……戻ってきやがった」
「なんだいそれ、なんか悪さでもしでかしたのかい」
「んなこと誰も言ってねえ」
結果をいうなら、宿に戻って最初に会ったやつも何も、宿のロビーに男性陣全員が勢ぞろいしていた。ネルの姿を認めて最初に声を上げたのはアルベルだったけれど。
「ソフィアは夕飯に間に合う時間に戻るって言ってから、別にここで待ってなくてもいいよ。……マリアも一緒に戻るって言ってたけど、あの手つきじゃだいぶ遅くなりそうだったね」
「いいえ、好きでここにいるだけですから!」
「……そうかい」
さわやかに即答したのはパーティリーダー。ただしそのイイ子っぽい返事は大嘘で、幼馴染を待ちかまえているようにしか見えない。
まあ、いい。
「あたしは部屋に戻ってるから。
あ、ちょっと。悪いんだけどさ、お茶持って来てほしいんだけど」
「はい、かしこまりました」
言いながら男性陣でむさくるしいロビーをスルーして、ちょうど通りがかった宿の人間に茶を頼む。工房からしばらく歩いてだいぶ落ち着いたけれど、もう少し休みたい。
……まったく、自分はこんなにも甘いものがダメだっただろうか。
「……で、なんだってあんたがそれ持ってくるのさ」
「別に持ってきたくてそうしたわけじゃねえ」
部屋に入ったところで、そういえばチョコレート菓子の箱を持っていたことを思い出した。持っていたくせに、これの存在を完璧に忘れていた。――まあ、覚えていたとしても、あの状況。誰かひとりを贔屓するわけにもいかないし、人数で配るには量が足りないし、正解だったかもしれない。
――どうしようかね。
自分で食べる選択肢はまだでてこない。ぼんやりしているうちにドアノブの回る音がして、ノックは聞き逃したのかとだろうと思って、あまりにダメージを受けている自分にちょっと絶望して、
入ってきたのは茶器を抱えたアルベル。
――聞き逃すも何も、多分こいつはノックなんてしない。
「さっきそこで押し付けられた。……クソ虫がっ!」
「素直に持って来たんだ、丸くなったねえ、あんた。
……ああ、そうだ。丁度いい」
サイドテーブルに茶器一式を乱雑に置いた男に、件の箱をぽいっと投げつける。食べものを乱雑に扱うのもどうかと思ったけれど、こいつなら反射で受け取ると思った。
予想どおり片手でつかみ取り、長い前髪の向こうで紅がいぶかしげに細くなる。
「なんだ」
「お駄賃?」
「疑問形かよ!!」
吐き捨てて、けれど投げ返してはこない。
意外と甘党なのはとっくに知っていて、ここ数日の騒ぎで例の祭についてはさすがにこいつも知っているだろう。投げ渡したモノがチョコレート菓子だということは、そういった流れから、口も態度も性格も悪いけれど頭のキレは悪くないこいつに想像ついたはずだ。
ネルは軽く肩をすくめる。
「たぶん夕飯の後とかにソフィアがばらまくとは思うけどね。好きだろ、あんた。そういうの」
「……フン」
鼻を鳴らして、そのまま出て行くと思ったらむしろこちらにやってきてネルはあわてた。茶器にのばしかけていた手を無造作につかまれ、なんとなくその意図がわかってさらにあわてる。
――ちょっと待て、今気分がよくないんだ!
考えてみれば、この男はこの男なりにネルに用があってこの部屋まできたわけで。だから茶器を持ってくるなんて目的のついででしかないし、本来の目的をないがしろにする気遣いなんてこの男に求めるだけ無駄だし、
わかってはいるけれど、でも、
「い、今はやめてくれそんな気分じゃないんだ……」
うすうす無駄だとわかっていたものの主張してみる。
予想どおり男は引いてくれない、つかまれた手首が熱い。うろたえているうちにますます距離が詰められて、ふっと耳元であざ笑われて思わずぎゅっと目を閉じる。
「――こんな箱よりも、」
――そんな至近距離でささやくなばか!
「てめえの方が美味そうだ」
――……ん、な……!?
しゅるりとほどかれたのは、手首に巻かれたリボンだろう。あの娘が菓子を包装してくれたあのとき。あまったからといわれ、せっかくだからと器用にそこに結ばれたきれいな飾り紐。好意だということはわかりきっていて、目の前で外すわけにもいかずに、だからそのまま工房を出た。
――ああ、なんだってあたしは、ほどく時間なんて山ほどあったのにこれをそのままにしちまったんだろう。
――このバカなら絶対にこんな妙な方向に深読みするって、わかってたのに!
後悔しても遅かった。第一、突っぱねようにももう身体に力が入らない。断固として拒絶しようと、思っていられない。触れられたところから熱が生まれて、頭に回って、何も考えられない。
一瞬開けた目に映ったのは、にやにやと機嫌よく笑う男。見ていられなくなってすぐさま再び目を閉じる。
……チョコレートに酔ったのかもしれない。自分も、こいつも。
頭に花でも咲いているような気がする。
