世界は、果たしてどんな色を持っていたのだったか。
あの人といたとき、確かに輝くようだったこの世界は。

―― いつつの色

あの人を亡くしてから気づいたことがある。いや「気づいた」というよりは、つきつめるなら「思い知った」なのかもしれない。
あの人を亡くしたのだと、もうあの人の笑顔を見ることも、あの声を聞くことも、あのぬくもりを感じることもできないのだと。それを認識してから――息が止まる思いでたったそれだけをかみ砕き、のみ込んでから。
ふと、気づいた。
自分の世界から、いろどりというものがなくなっていた。
色がわからないわけではない。たとえばこのロークの透き通った空の青、きらめく海の青、みずみずしい緑、咲きほこる花々の赤、黄、その他いろいろ。認識できないわけではない。あの人の愛した自分の淡紅の髪、あの人の髪と同じ自分の青い鎧、それらが違った色に見えるようになったわけではない。
それなのに、自分の世界から確実に失われたものがある。
あの人と一緒に、亡くしてしまったものがある。
そして、思い知る。
自分がどれほどあの人を愛していたのか。このこころのどれだけをあの人に預けていたのか。自分の世界のどれだけを、あの人が占めていたのか。今も、占めているのか。

◇◆◇◆◇◆

華奢なグラスを揺らす。とろりと波打つ水面、そこに映る自分の像は――照明を落としているので、光が足りなくてよく見えない。
カルナスの一角、スツールに腰をあずけたミュリアは口の端をもちあげてみた。グラスの中に映っている自分も、きっと微笑んだだろう。見えないけれど。そしてなんだか馬鹿馬鹿しくなって一息にグラスをあけてから、先ほどからこちらをうかがっている人影を肩ごしに見やる。
「ぼうやも呑んでみる?」
「っ、あ……!」
「ノゾキってわけでもなさそうだから見逃してあげるけど。いい男のすることじゃないわね」
予想どおり居心地の悪い顔をしたこの船の船長は、あからさまに視線を逸らして、けれど逃げなかった。どこか覇気のないいつもの調子でもぞもぞと――ミュリアからひとつあけたスツールにつこうとする。
ふ、と自然に笑みが浮かんだ。
「意外といい度胸してるのね? それとも礼儀のつもりなのかしら」
「は!?」
「すぐ隣があいているのに、誘った私からわざわざ距離をとるなんて」
「あ、いや、でも……!」
「訊きたいことがあるんでしょう? だから時間がないのにわざわざ戻ってきたのよね」
もてあそんでいた自分のグラスと、そして新しいグラスを満たして、自分の脇に置いた。しばらくもごもごと何か口の中でつぶやいていたエッジが、それから意を決したようにそのグラスの前――ミュリアの横のスツールに座る。
「――乾杯」
「……何に、ですか?」
「そうね……天文学的確率の下、あなたと出会えた奇跡に」
「詩人ですね」
「そう?」
ちりん、合わせたグラスに何を思ったのか。くいっと風情なくそのグラスをあけたエッジは次の瞬間せきこんで、予想がついていたミュリアはくすくすと笑う。――笑うことができる自分を、演技でもそうしようとして笑ったのでもない、自然に笑う自分に驚いて、すぐにその笑いをおさめる。
その不自然さに、まだむせているエッジは気づかなかったのだろう。だから再び彼のグラスをなんでもないように満たして、恨めしげに見つめてくる彼に、これは演技でにっこりと笑ってみせる。

「――ず、ずいぶん……強い、お酒ですね……」
「弱くはないわね。知らないのに簡単にあおるから、そうなるのよ」
「うっ」
グラスを揺すれば水面がとろりと波打つ。そこに映りこんだ、落とした照明がゆらりとおどる。くちびるを湿らせる程度に舐めたなら、熱がのどを伝ってすべり落ちていく。
強い、酒だ。普通ならジュースで割って呑むような。
「――ミュリア、」
「ねえ、信じられる? 私こんなに強いお酒って呑めなかったのよ」
「……え? 今、」
何かを言いかけたエッジを、さえぎっていた。そのつもりはなかったけれどそうなって、ちくりと罪悪感のようなものが芽生える。
だからだろうか。言うつもりのなかったことが口からすべり出る。
「あの人と呑んだとき、生のままであおったから――このグラス一杯くらいで意識が遠のきかけたわ」

◇◆◇◆◇◆

それほど昔でもない、けれどもう、懐かしむしかない話。終わってしまった過去の話が、終わってしまったという事実が、ただただ哀しい。淋しい。

あの人があんまりおいしそうに呑むから、真似して呑んでみた過去のミュリア。味なんてわからなくて、実際本当に飲み下したかどうかの記憶さえはっきりしない。そのまま気を失ったかもしれないし、朦朧としながらうっすら意識があったかもしれない。けれどどちらにしろあの人にもたれかかって、あわてたあの人が肩を支えてくれた。たぶんそのままベッドまで運んでくれたはずだ。
目が醒めたとき、自分はベッドにいて。ミネラルウォーターとグラスを抱えたあの人が、全力で安堵の息を吐いていた。気分は悪くないか、とにかく水を飲めと、かいがいしく世話を焼いてくれた。

それはそれほど昔ではない、けれどもう、過去の話。

◇◆◇◆◇◆

「あの……」
「色がね、なんだか遠いのよ。世界がなんだか遠いの。見えるし、感じるし、味わえる。でも全部が色あせているの。お酒も、いくら呑んでも昔みたいに酔わない」
「ミュリア」
「そんな世界なのにね、――赤だけは、鮮やかなのよ」
エッジがはっと息を呑んだのがわかった。いじめるつもりはなかったけれどそんな気持ちになって、意地の悪い笑みがきっと浮かんでいる。
「ぼうやがあの男を信頼しているのはわかったわ。あいつが恨まれることをするわけがない、って心底信じて、それだけあの男を信用しているんだって、わかってる。
でもね、私はあの男が許せない。絶対に許さない。
ぼうやが何と言おうと、ね」

いろどりのない世界に、たったひとつ鮮やかな色。鮮やかな赤。
あの人を亡くして、一緒に亡くしたものがあるのはいい。それだけあの人を愛していたのだと、思い知るのもいい。一生この世界が続くのもかまわないし、それでもきっと自分は生きていくだろう。惰性でもなんでも、生きるのだろう。
けれどその静謐な世界に、ただひとつ鮮やかな赤が許せない。全力であの人を悼みたいのに、余計な感情を、憎しみを抱かせるあの男が悔しい。
あの人を亡くして、自分のこころのどこかも死んだ。それだけでいたいのに、それ以外の激情を抱かせるあの男が許せない。今もこの宇宙のどこかでのうのうと生きている、生き延びているのが許せない。
――あの人を、殺したくせに。

「ぼうやがきらいなわけじゃないわ。ぼうやのことを、ぼうやの判断を、信頼しているわよ?
――でも、あの男のことだけは別。絶対に、つかまえる。逃がさない」
そうしてエッジを見やって、ミュリアはあでやかに微笑んだ。いつの間にか血の気の引いていた彼に微笑んでから、グラス一息にあおる。熱を飲み込む。
「もう寝なさい。酔ったようなら水を飲んでから、ね」
「あ、ああ……ミュリア、も、あまり、遅くならないように」
「ふふ、ありがとう」
そうしてふらふらと去る彼の背を見送って、残されたグラスを、ちりん、と合わせた。乾杯のつもりはなくて、ただ、何気なく。

◇◆◇◆◇◆

実際あの男を殺したなら、赤はいろどりを失うのだろうか。それとも、世界のすべてに少しずついろどりが戻るのだろうか。もしかしたら今と何も変わらない、かもしれない。仇と銘うったところでひと一人憎んで殺して、その責を負うならそんなこともあるだろう。
どうでもいい、どうなってもかまわない。
あの人を失った自分がどうなっても。目的を果たした後、自分がどうなってしまっても。

……ああ。
世界は、果たしてどんな色を持っていたのだったか。
あの人といたとき、確かに輝くようだったこの世界は。

―― End ――
2009/05/16UP
一から十のお題_so4CP混合_
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いつつの色
[最終修正 - 2024/06/17-13:23]