その日は朝から特別だった。
エッジは、これからレムリックに行こう、ウドレー村でもルティアのいるアラネアの砦でも、丸一日自由行動にしようといってくれた。
レイミの手料理はいつでもおいしいけれど、今日の食事はさらに豪華で、何よりデザートが絶品だった。
バッカスにはリムルのために新しい遊びを考えてもらった――まあ正直、せっかく考えてもらったものの、例によってルールがややこしかったのであまりリムルには面白くなかったけれど。
メリクルとサラには、いつにも増して追いかけっこにつきあってもらった、……はずが、気づけば本気で逃げるサラを本気になったメルクルと一緒になって追いかけていたけれど……これはこれで面白かった。
ミュリアは、買ったけど一度も使っていないからといいにおいのする口紅をくれた。口紅じゃなくてリップクリームよ、とミュリアは笑っていた。
――そして。
「……ああ、リムル。今日、誕生日でしたね」
カルナスの船内をどこかふらふらと歩いてきたフェイズが、すれ違いざまにそんな風につぶやいた。
――ああ、もなにも。朝食の時にレイミが豪華な献立をそう説明したのに。
――みんな口々に祝ってくれたのに。
今までは冷静に抜け目がなかったフェイズが、まるでたった今気づいたようにつぶやいたのが不快だった。いや、きっと不快とは少し違う。最近いろいろ様子のおかしい彼に気づくたびに騒ぐ胸が、またざわざわする。
ほぼ真横、あるいは少しだけ背中合わせで立ち止まったために顔がお互いに見えなくてよかったと思う。
きっと自分は今、とても変な顔をしている。
「れーたんがお祝いしてくれたのよ。えーたんも、バッカたんも、メリたんもミュリたんもサラたんも」
「そうですか」
「みんなの声、聞こえてなかったのよ?」
「――え?」
――その場に、特に朝食の場にはフェイズもいたのに。
思わずつぶやいたなら、まったく意味のわかっていない間抜けな声が上がった。これはダメだ、多分本当に聞いていなかった。あるいは聞こえていなかった。一体何にどれだけ集中していたのだろう。
呆れてつぶやこうとして、けれどやめる。
フェイズは何もいってくれないので、勝手に心配することもできない。ただ、胸のざわざわが消えないので、何か文句でもいってやろうとリムルはくるりと振り向いた。
なんでもいい、いいがかりでもいい。今までどおりのつんけんした態度で、今までどおりのなんでもない文句をつけたなら、きっとフェイズも今までどおりを返してくれるはず。
そう思ったリムルに、小首をかしげたフェイズが何かをさし出していた。シンプルなリボンで口を縛った、小さなリムルの手にも握りしめられそうな大きさの袋。思わず水をすくうように両手で受け取って、それはずいぶん軽い。
「……これ、なんなのよ?」
「開けてかまいませんよ。さしあげます」
顔いっぱいに疑問符を浮かべて、うながされるままにリボンをほどく。何気なく開いて中を見たなら、土にも似た小さな粒がさらりと音を立てる。
見ても正体がわからない。
「……これ、なんなのよ?」
同じ疑問をつぶやいたなら、ふ、と息が降ってきた。呆れたのだろうかとむっとフェイズを見上げたなら、彼はなぜかやわらかく笑っている。
「花の種です。レムリックに根づくかわかりませんけど」
「どこで……」
「エルダーの、ぼくの星の花です。レムリックの土との簡易検査はしておきました、毒性はないですよ。その他の悪影響も」
フェイズの言葉はときどきリムルによくわからない。ただフェイズがここまで自信たっぷりにうなずいたなら、信用しておけばいいのだろうと曖昧にうなずく。
「本来なら花を咲かせてそれを渡した方がよかったとは思いますが、育てる暇はありませんでしたし、ぼくは園芸なんてしたことがなくて。きれいに咲くとは思いませんでしたから。ロークで季節の花を探す時間もありませんでしたし」
――それは違うのよ。
なかったのは、時間ではなく余裕だったとリムルは思う。ロークを出発するときにはたぶんフェイズの精神にそんな余裕はなかった。たとえカルナスに乗り込む直前に咲いている花があったところで、どこかの街に花屋があったところで、そもそもフェイズがそれに気づいたかどうかあやしいし、気づいたところでそれをリムルのために用意しようと思いつくだけの余裕はなかっただろう――リムルは思う。
思ったけれどおくびにも出さずに、うなずいてみせた。
「……ありがとう、なのよ。ちゃんと咲かせてみせるのよ」
「元は野草ですから、世話を焼かなくても育つと思いますよ。不安材料はレムリックの寒さですが……」
「夏のあったかい時にまいてみるのよ」
「そうしてください」
そうしてフェイズがもう一度微笑んだ。それはとてもやさしくて、けれどなんだかざわざわする。そのまま立ち去ろうとするフェイズの、彼の動きを真似る黒いマントを、思わず握りしめて引き止めたくなるような。
けれどリムルがそうする前に、フェイズがふと振り返った。振り返った彼からは、今にも儚く消えてしまいそうな危うさが、なぜか消えていた。
「――忘れていました」
そして彼の手がリムルの頭をなでる。こども扱いするなといつものように払いのけたくなって、けれどリムルはそれを躊躇した。そんな彼女に気づかないフェイズは、リムルと目線をあわせるためにわざわざその場に膝をつく。
改まった様子に少しリムルの身が引ける、フェイズは多分それにも気づかない。
「誕生日おめでとう、リムル。きみのこれからの一年がすばらしいものになりますように」
「あ、ありがとう……なのよ」
そしてもう一度リムルの頭をなでた手は、何ごともなかったかのようにすっと引くと、今度こそ彼は去っていった。
小さな袋を握りしめたまま、リムルはしばらく立ち尽くす。
――フェイズらしくない。
様子のおかしいリムルに気づかないフェイズはフェイズらしくない。
――けれどたぶん、何よりもフェイズらしい。
余裕がないくせに、そうと知られているとさえ思わずに、ひょっとしたら自分の余裕のなさに気づかないまま、それでも精一杯リムルを気遣おうとするフェイズはきっとフェイズらしい。
やがて気を取り直したように改めてリボンを結びなおすと、リムルはそれを落とさないようにぎゅっと握りしめる。
エッジはこれからレムリックに向かってくれるといった。それなら、ルティアに預かってもらおう。戦いの最中に落としたりしなようになくしたりしないように、預かってもらって、そして。
この旅が終わったら、レムリックにエルダーの花を咲かせよう。
それをフェイズに見せてあげよう。
――いつか。
