最悪のかたちでフェイズと再会して、敵として彼を倒して、和解して、けれど崩れゆく宮殿の中に彼を見失ってから。リムルにはよくわからないいろいろなごたごたの末、彼女はレムリックに戻ってきた。
先にウドレーに移住していた村人から、ウドレーに元から住んでいた村人から、そして姉のように慕っているルティアから。むしろ当たり前のようにウドレーへの移住をすすめられて、けれどリムルは。
「よい、しょ……なのよ」
たてつけの悪い扉を一生懸命に押しても引いても、リムルの力ではそれはどうにもならなかった。そもそも扉を支える柱から歪んでしまっているのはわかっているので、がんばってもどうにもならないことを確認して、彼女はあっさり手を離す。
「ふう」
肌寒い季節なのに額にうっすら浮いていた汗を手の甲でぬぐってから、手近な地面に置いたあげくそこいらの石を重石にした、この村の簡単な地図に印をつける。ちょこちょこと走ってはなれてその家の歪みを目で確認して、さらに追加して書きつけた。
もちろんあの騒ぎでも無事だった家もあるし、そういえばウドレーに引っ越す際に住人が鍵をかけているものもある。そういったものもすべて実際に確認して、リムルの力でどうにかなりそうなものもとりあえずメモだけして、そんな調査もどきは多分今日いっぱいで終わる。
明日からは修理と修繕と、リムルひとりではどうにもならないものはウドレーのひとに相談してみて、それでも手が出ない場合はその時どうするかを考えよう。
やることを頭の中でまとめて、もうひとつ息を吐く。
誰もいない村でさえ、維持や管理はかなり大変だ。
これにひとが、主張が違う人間がたくさんいたなら、意見をまとめるのはもっと大変だ。
祖父は、なんてすごいひとだったのだろう。
当たり前のようにウドレーに送ろうとしてくれたエッジに、そして当たり前のようにリムルを招こうとしたウドレーのひとたちに、けれどリムルはトリオムに残ると宣言した。
リムルにはわからないばたばたの最中、ずっと考えていた。
これから、どうするか。どうしたいか、なにができるのか。
今まで感覚ですべてをどうにかしてきたリムルにとって、考えるというのはなかなかに厄介なことだった。
自分を冷静に見つめて、状況を平静な目で眺めて、周囲のひとたちのこともちゃんと考える。それらを当たり前のようにこなしていた彼は、それが一体どれほど大変なことなのか果たしてわかっていたのだろうか。わかっていて、それでもなお自分に満足しないで、自分にないものを持つ、たとえばエッジなどに憧れていたのだろうか。
わからない、今では訊くこともできない。
一生懸命頭をひねって考えてひねり出した答えが正解か間違っているか、それさえ確認できない。
きっと、誰もが誰かの真似をするのはとても大変だ。
そのひとにとっては当たり前のことも、誰かにとってはとても大変なことで、けれどなかなかそのことに気づかない。リムル自身、自分が簡単にできることが他のひとにどれだけ難しいか、なんとなく感覚でわかっていたつもりだったけれど、きっとそれはどこまでいっても「つもり」でしかなくて。
たとえば。
「わんわ」
当たり前のようにケルベロスを召喚して、温度は感じない、ただやわらかな毛皮をぎゅっと抱きしめる。喉の奥でやさしく唸ったケルベロスが軽く尾を振って、リムルの腕をくすぐった。
たとえば他の誰も、今では代理ではなくて砦の巫女になったルティアでさえ、ケルベロスを――他の名もない魔物だとしても、呼び出すことはできない。
自分がケルベロスの召喚で苦労したことなんてなかったから、昔は皆できるのにしないだけだと思っていた。けれど本当はそうではなかった。リムルにとっては息をするくらい当たり前のことも、他のひとにはそうではないのだと知った、あのときの衝撃。
きっと同じ衝撃を自分は他のひとに与えている。これからも、生きていればきっとずっと、そういう衝撃は自分も他の誰かも受けるのだろう。与えるのだろう。
「――だから、フェイズもすごいひとなのよ。フェイズはフェイズにしかできないことがあって、ねえ、フェイズ。フェイズはそれをわかってるのよ?」
きっと彼は、わかっていないのだと思う。理屈で考えることが当たり前の彼だから、理屈ではそういうものだとわかっている、そんな風にいうかもしれない。
けれど、多分本当の納得はしていない。自分は誰よりもできが悪くて、自分にできることは誰にもできて、きっとそんな風に、こころの奥底では思っている。思い込んでいる。
――それは違うのよ、と告げたい。わからせたい。
けれど今は、フェイズと会うことができない、言葉さえ届けられない。その他の手段の何もかもが、彼にかすりもしない。
「ほんとにフェイズはバカなのよ。頭がいいのに、バカなのよ」
もう一度ぎゅっと抱きしめたケルベロスは、尾で再びリムルの腕をくすぐって、そして虚空へ消えた。気分転換はこれで終わり、と次の建物を調べようとして、けれどぐぐぅ、と空腹を訴える音がして、リムルは無言で自分を見おろす。
調べる前に昼食にしよう。頭が回らないと、ちゃんと調べられない。
とにかくここしばらくで、どうにか生活できるように掃除と修繕と整理をした自分の家へ、リムルはとぼとぼ歩いていく。その途中に小さな畑に寄ってみたけれど、リムルが世話をしている野菜はまだ収穫までいかない。村の周辺でレイミの真似をして採ってみたものと、先日ウドレーの村に行ったときに買い込んできたものと、そういったものに簡単に火を通す。
まともな料理になんてとてもなっていない、けれど食べられる。おいしいなんて思わない、けれど空腹感はまぎれる。余裕ができたらちゃんとした料理をルティアの母あたりに習おうと思って、けれど今はこんなモノでも十分だった。
だって、ひとりの食事なんて結局どんなものでも味気ない。
――リムは、トリオムにいるのよ。
考えて考えて考えて、リムルが導き出した結論。
大陸の北の方が、自然は厳しいけれど風土病の被害は少ない。だからあの事件で、いやそれ以前から少しずつ、トリオムの人間はウドレーに移住していた。トドメになったあの事件がなくても、きっとリムルが成人する前にトリオムの村には誰もいなくなっていただろうと思う。
けれどウドレーの村は大人数が暮らしていくには作物の実りが乏しい。
――だからリムがトリオムを復活させるのよ。
――リムはじーちゃんの孫だから、村長の孫なんだから。
それは詭弁だったけれど、誰も明確な反対をしなかった。本当はただにぎやかな場所に暮らしたくないだけだったけれど、誰も冷酷にそんなリムルの心情をつついてはこなかった。
それに、村を復活させたい気持ちも嘘ではなかったから。
ひとりで暮らしていけるのかと訊ねられて、大丈夫と返した。
試してみてどうにもならなかったらその時は、と逃げ道を作った。
足りないものを買いたいこともあるし、定期的にウドレーに顔を出す約束をした。
どうしても緊急の時はルティアにケルベロスを走らせることにした。
ウドレーに移住したトリオムのひとたちも、ときどき様子見に訪れてくれる。
そうしてリムルは今ここにいる。
時にはケルベロスの助けを借りて、ひとりでどうにもならない時はウドレーのひとたちを、その知恵を借りて、少なくともぼろぼろになっていた自分の家くらいはひとが住めるものになった。
次は他の家も整備して、畑ももう少しちゃんとしたものにして、村の周囲のモンスターをもう少しは大人しくさせて、そしてバカラス病をはじめ風土病を、治療法だけではなくてその予防法を見つけたいと思う。
それに、ああ、春になったらウドレーの子供たちにリムルの呪紋を教える約束をしてある。
やることはたくさんある。
けれど、本当にしたかったことは。今もこころの底から願うのは。
「――早く帰ってくるのよ」
あのとき、崩れゆく宮殿の中に見失った彼を、けれどリムルは彼が生きていると信じている。いや、知っている。誰もが――エッジたちも、フェイズの上司のガガーンも、誰もが彼を死んだと思っているけれど、リムルだけは彼が生きていると知っている。
はじめて発動させた転移の呪紋は成功した手ごたえがあった。ただ、なにぶんはじめてだったから、リムルの漠然と考えていた場所に彼を転移させることはできなかった。
あるいは、フェイズの望む場所にというアレンジを入れたせいかもしれない。
「みんな、怒ってないのよ。いつまでもぐじぐじ悩んでるのはフェイズだけなのよ」
いろいろ考えて、思った。柔軟にみえて存外思い込みの激しい彼は、いつまでも自分を許せないかもしれない。いや、きっと許せないのだろう。そして、その負い目がなぜかみんなの前に二度と姿を現さない、なんてことに直結するかもしれない。
リムルはこうしてひとりで生きられるけれど、ひよわな彼には無理なのに。
普段は自分を過小評価するくせに、なぜかこんなところだけ自分を過大評価して、ひとりで生きられると思い込んで無理をして、――それはとてもありえることだと思った。ただ、淋しがり屋なフェイズを知っているから、そして責任感の強いことも知っているから、目が醒めてそこがレムリックだとわかったなら、どんな無理をしてでもここにたどり着くだろうとも予想がついた。そしてきっと、遠目にでも彼女の無事を確認しようとするだろう、と。
その時にもしもリムルがウドレーにいて、大勢のひとに囲まれていたなら、きっとフェイズは一生リムルの前に姿を現さないだろう。ああリムルは幸せなんですね、そう安心してもう二度と彼女のそばには寄ってこないだろう。
思って、確信して、だから。
だから、リムルはひとりで生きていくことにした。そうして、彼を待つことにした。
「さてと、」
やることはたくさんある。まずは、この食器を片づけて建物の調査の続きをしなくては。
そうして村が復活するまでには、きっとフェイズはここにたどり着く。たどり着いて、その時ひとりで奮闘しているリムルを見てしまえば、フェイズは彼女に手を貸さずにはいられない。
そうやって彼の居場所を作ってあげなければ、フェイズは「ここ」に帰ってきてくれない。
考えに考えた結果、リムルはずるい策を選んだ。
だからこそ、手を抜くわけにはいかない。
しょんぼりする暇も、怪我をする暇も病気にかかる暇もない。
自分にしかできないことがある、彼にしかできないことがある。
だから。
動いたひょうしに頬にこぼれたものに気づかないふりをして、リムルは空になった食器を手に立ち上がる。
自分は泣いてなんかいない。
――だから安心して「還って」くればいい。
早く、はやく。
