――土のにおいに、目が醒めた。
知っている、けれどそんなに親しくはないにおい。いやなにおいではけっしてなくて、涙が出るくらい懐かしいのに、けれどつい最近知ったばかりのにおい。
ただ、このにおいに触れることはもう二度とないと思っていた。
いや、においどころかその他のすべての感覚と。
感覚どころではなくて、すべてのヒトにもモノにも。
――もう、二度とあえないと。思っていた、のに。
「……?」
ぼんやりと覚醒しつつあった意識が紡いだ思考にひっかかりを覚えて、そうすることでぼやけていた感覚が一気に鮮明になる。まずは痛覚が盛大にはじけて、それで覚醒は確実のものになった。
腫れ上がっているようなまぶたをなんとかこじ開ける。襲いくる光に思わず反射的に目を閉じて、早い瞬きをくり返すうちにようやく光に目が慣れて、
がばっと上体を起こした。
「ここ、は……」
かすれきった声さえ、上げたならのどが痛む。全身がすぐにもばらばらになりそうな、痛覚というよりも違和感に顔をしかめる。瞬きをくり返して光になれたように、少しずつの動きをくり返してそのうちにゆっくりと動きを大きくして、そうするうちにあれほど激しかった痛みはいつかどこかに消えていた。
倦怠感は残っている。けれど。
――そう、まるで再び生まれなおしたような、まるでそんな感じがする。
土のにおいがした。光降る大地に、ひとり倒れていた。大きな痛みはなくて、倦怠感があって、五体すべてが満足で、五感もたぶん正しく働いている。
生きて、いる。
――ぼくは。
倦怠のあまり力の入れ方がわからない足で、何とか立ち上がる。ふと身体を見下ろしたなら、まあ、地面に倒れていたのだから当たり前ながら土まみれで、懐かしいのに新しいにおいがする。とりあえず身体についた土をはたいて落とせるだけ落として、ふとその手を見下ろした。
――何が、あった。
この手につかんだ、いや、この手をつかんだはずのひと。尊敬するひとを巻き込むわけにいかなくて振り払って、ただ、結局は一緒になって落ちてきた彼を救うために――意識を失うわけにいかなくて、死ぬわけにもいかなくて、
固有名詞が出てこない。
ああ、自分の名前さえも――出てこない。
とにかく。
自分はあのとき助からないはずだったのに。
そうだ、自分は確かに助かるはずがなかったのに。
つまり自分は、今ここにいるはずがなかったのに。
――なぜ。
疑問が押し寄せる。
懸命に考えて、そうでもしないと自分を取り戻せない、そんな強迫観念に襲われて懸命に考えて、そして浮かんだのは、たったひとつのかお。
幼い、人形めいた、けれど。出逢った当初はほとんどなかったはずの表情が、あのときには。
あの、ときは。
――なんでも呼んでやるのよ。
不意に耳の奥によみがえる、こえ。
――フェイズ、フェイズ、フェイズ、フェイズ、
ああ、そうだ。あのとききみがぼくの名前を呼んでくれた。
今も、記憶の中でぼくの名前を呼んで、ぼくを取り返してくれる。
「リムル、」
そうだ、彼女の名前はリムル。奈落に落ちかけた自分を助けようと、自分の安全さえ振り捨てて必死になってくれたあのひとはエッジさん。
旅の仲間たちのことも、もちろん同胞たちのことも、リムルを思い出したなら芋づる式に出てきた。
思い出した。
改めて、知った。
なぜか新鮮な気持ちになって周囲を見渡す。
見覚えのない景色、けれど、ああこの種類の樹は見たことがある。この土のにおいも、そういえば一番強く感じたのは。どこにも確証はないけれど、そうだ、多分、ここは。
確かめなければならない、そしてもしもここがそうなら。
「きみに、逢いに行かなければ」
わからないことだらけで、ひらめきでしかないけれど。
きっといま自分が生きているのは、彼女のおかげだろうから。自分ではいくら考えても思いつくことのない、彼女のいつもの感覚的な思いつきが。
そうだ、彼女が助けてくれたから。
だからきっと、いま自分は生きてここにいる。
それとも本当に生まれ変わって、ここに、この地面に立っている。
「リムル、ぼくは――ぼくは、」
逢わなければ、逢いにいかなければ。きっと彼女は待っている。待って、くれている。
そして、――逢いたい。
告げたいことがあって訊きたいことがあって、それよりも何よりも逢いたい。
だから。
踏み出した足に、土のにおいが届いた。大地に抱かれていると思った。
許された、ような気がした。
気のせいに決まっているけれど、――彼女に許された気がした。彼女が許してくれたような気がした。
この大地に立つことを。
生きていることを、生きていく、ことを。
ああ、はやく。
こうして気づいたなら一刻も早く。
――はやくきみに、あいたい。
膝の笑う頼りない脚で、そうして最初の一歩を踏み出す。
