カルナスの一角、彼に割り振られた部屋の隅で、すでに日課の今日知りえた事柄をまとめているところだった。何か軽いものがすり合わさるような音が聞こえて、なんだろうとフェイズは顔を上げた。
そうして視界の隅に何かが動いたので何気なくそちらに目を向ける。
が、あわてて目を伏せた。先ほどまでと同じように、個人端末の操作に夢中になっている、と見えるように。
――何をしているんですか?
別に悪いことをしているわけでもなし、堂々と訊ねればよかったのに。うっかり疑問を呑み込んでしまって、そうなるともうきっかけを見失ってしまって、そろそろと目線だけを移動する。
部屋の一角、フェイズとは対角の位置にいるリムルは、それこそ彼女の作業に夢中になっているようで、挙動のおかしいフェイズにはどうやら気づいていないようだった。
ただし時おり顔を上げてはフェイズを振り返るので、なかなかに油断できない。
――タナバタ、というらしい。
観葉植物の世話をしていたレイミが、ふと思い出したようにリムルに話しているのを通りがかりに聞いたのは、そういえば数日前だった。
――働き者の男女の神が、上司の神のはからいで結婚をした。
――男女の神は互いを好きあって、けれど。
――あまりの仲睦まじさに仕事を忘れた。
――それを怒った上司の神は二人を引きはがし、二人の間に大きな川を作ってしまった。
――とても渡ることのできない大きな川に、二人は嘆き哀しんだ。
――上司の神は、哀しみのあまりやはり仕事をしない二人に言った。
――ちゃんと働くのなら、年に一度、一日だけ二人の逢瀬を許そう、と。
「あいたいのにあえないのは、哀しいのよ。ひどいのよ」
「うーん。でもね、上司の神さまもいきなり川を作って意地悪したわけじゃないの。
ちゃんと働きなさい、自分の仕事をしなさいって、何度も忠告したんだけど……二人はそれを聞かなかったのね。神さまの世界って、ひとつのお仕事をするのはひとりの神さま、って決まりごとでもあるのかしら。そのお仕事をするひとが――ひとじゃなくて神さまだけど、だれもいなくて、みんな困っちゃったんだって」
「むむう、それはたしかにダメなのよ」
あの時かすかに聞こえてきた、そんな会話。
神話だというのに、男女の神もその上司の神も、登場人物の三柱の神が三柱ともやけに人間じみていて、親しみを覚えた。神、とは全知全能ではないのか。気まぐれで川を作ることができるのに、他の神の仕事は肩代わりできないのか。川をこえることができないのか。
そもそも自分の仕事を忘れるほど誰かを想ったことがないフェイズには、まったくピンとこない。
神話とはいえ話に違いなく、誇張が入っているのだろう、――そんな風に思う。
そんなことを考えている間に、どうやら話は少しシフトしていたらしい。
それでね、とレイミの声がした。
――それで、その女神さまの方がね、手芸の神さまだったんだって。
――恋人に逢えるーってうきうきしている神さまだったら、ひょっとして簡単に願いを叶えてくれるかもしれない、って昔のひとは考えたのかしら。
――その、一年に一度の日は、手芸が上達しますように、ってお願いごとをする日になったのよ。
ちゃっかりしているわね、と華やかに笑って、こんな、と多分手で示したのだろう。あくまで通りがかりのフェイズには見えなかったけれど、
――こういう細長い紙、タンザク、っていうんだけど。
――これにお願いごとをかいてね、笹の葉……は、ないなあ。
――まあ、木の枝に下げておくの。
――これが、タナバタの由来と、タナバタでやることよ。
それできっとシメだったのだろう。わかったのよー、というリムルの声が聞こえて、思わずあわててその場を立ち去った。不可抗力で聞こえてしまった会話だ、別にやましい思いをすることなどなかったのに、むしろ何の話をしているんですか? とでもいってそのタイミングでも会話に参加したら良かったのに、うっかり逃げてしまった。
……なぜ、ぼくは。
足早にその場を立ち去りながら、すでに後悔に襲われていたけれど。もうどうしようもないとしか思えなくて、その件は知らないふりをするしかなかった。新しく仕入れた地球に関する知識ということで、個人端末にこっそり書き加えたけれど。何もこっそりの必要はどこにもないのにと、やはり思いながらもどうしたらいいのかわからない。
それが、数日前。
そして今日までの数日で、どうやらリムルはタナバタをしてみることにしたらしい。そういえば先日はレイミに紙がないかとねだっていた。今日は――こうして短冊を下げるべく、木の枝を調達してきた。
船長命令で同室になっている以上、なぜか毎回タイミングよく居合わせてしまっている以上、そのすべてをフェイズは知っている。むしろあれからタナバタについて自分で資料をあたってすらいた。口出しをするきっかけも、話しかけるネタも、全部揃っているのに。
なぜか思い切りだけが足りなくて、今日もこうして知らんぷりをしてしまっている。
「――フェイズ」
「ぅわ、なっ……なんですか?」
「ああっ! ふり向いちゃダメなのよ。今日はもう、こっち向くのきんし、なのよ」
「……なんなんですか、それは……」
「リムはこれかられーたんのとこにおはなしききに行くけど、フェイズは来ちゃダメなのよ。こっち見るのもダメなのよ」
――なぜですか。
そう訊く権利は、あったはずだ。それをきっかけにすればよかった。
それなのにフェイズは、
「……わかりました。今日だけ、ですよ?」
「うん。すなおでよろしい、なのよ」
やさしさ、ではない。ただふんぎりがつかないだけでフェイズはせっかくの機会を見送って、そしてリムルはその言葉通りに部屋を出ていく。
と思いきや、出て行ってドアが閉じた直後にすぐさま開いて、顔だけがにょきっと生えて、
「やくそく、なのよ」
念押しをして、今度こそはなれていった。
いやな感じにかいていたねばつくような汗に、フェイズは眉を寄せる。
「何だって……」
つぶやいて、不甲斐ない自分にがっくり肩を落として、そして、ふと。
足元にいつの間にか落ちていたのは、リムルの用意した紙――タンザク、だった。
振り向いていないし、背後を見てもいない。必要もないのに誰かにいいわけをして、拾い上げて、何気なく裏返す。
レムリックの文字はすでに習得している。難しい綴りはさすがにまだ無理だけれど、言動の幼いリムルの書く文字、その言葉くらいはフェイズにも読める。
おかげで読んでしまった。
おそらく彼女があれほど警戒した、その一番の原因はこれだったのだろう。それがうっかりフェイズの足元に舞ったのはリムルのミスだろうけれど、いろいろ薄々知りながら、このタイミングで何気なくそれを読んでしまったフェイズの方がきっと過失は大きい。
あわてて、何もなかったふりをして足元に裏返しに紙を置いた。手首のスナップで背後にそれをすべらせて、絶対に振り向かないことをこの場にいない彼女に誓う。もう遅いとわかりながらも、そうしなければいけないと思った。むしろすべて白状して懺悔して、許しを乞うべきかもしれない。
――フェイズに、もっとすなおになれますように。
細長い紙いっぱいに、大きくかかれたリムルの幼い文字。手芸の上達とはまるで関係ないながらも、それが自分と関係なかったならほほえましい気持ちで見ることができただろう、願いごと。
けれど見てしまった以上、それに自分が関わっている以上、それを知ってしまった以上。
フェイズは、実は自分が細い糸の上に不安定に立っているのだ、と自覚してしまった。知らなければよかったことを、自分のミスで知ってしまった。知ってしまって、もう引き返すことはできない。かといってつきつめて考えるわけにもいかない。
「――寝よう」
とても無理だと思いながら、背後を絶対に見ないように注意しながらベッドに横になる。ああ、個人端末の電源がつけっぱなしだし靴は脱ぎ散らかしたままだしそもそも寝巻きではない普段着で横になるとはなにごとだ。
けれど。
他にどうしたらいいのか、わからない。
――そもそも素直になりたいならあの態度はないのではないか。
そんなことを思ったのは、そのまま結局一睡もできず、翌朝の起床時間ぎりぎりになったころだった。食事もシャワーもすっ飛ばしたフェイズを盛大に呆れていたリムルを知っているけれど、全部寝たふりで乗り切った。消灯まぎわにごそごそやっていたのは、きっとタナバタを片付けていたからだろう。そう思いたい。
この数日のぐだぐだな自分を思い返して盛大にため息を吐いたフェイズは、顔を洗って少しはしゃんとしないと、と起き上がって、そして。
たった一枚、昨日の爆弾的タンザクとは明らかに違う色のタンザクが自分のまくら元に置かれているのを発見する。
そこには。
――フェイズがもっとすなおになりますように。
それを見てしまったフェイズの頭がまっ白に染まり、意識までまっ白に染まって、次に目が醒めたときには心配顔の船長はじめクルーが勢ぞろいで、件のタンザクは跡形もなく消えていた。
果たしてアレが幻だったのか現実だったのか。
知っているはずのリムルは、素直とは正反対の態度でそっぽを向いていた。
