――フェイズ。
耳元でささやかれた気がして小さくはねて、そうしてどうやら自分がまどろんでいたことを知った。彼以外の生物が存在しない、時間の凍りついた宮殿の最奥。かしずくもののいない玉座に改めて身を沈める。
食事も睡眠も必要ないものなのにうっかりまどろんでいたのは、少し前の自分を引きずっているからだろうか。愚かで、弱くて、無知だった「フェイズ」を引きずっているからだろうか。そんなふうに思えば小さく生まれるいらだち。喉の奥で小さく笑ってそれを流して、仮面の奥で目を伏せる。
――フェイズ。
先ほどの声は、誰のものだっただろうか。どんな感情をのせていただろうか。
まるで現実が夢そのもののように、とりとめのない思考が泡のようにはじける。
すべてが思い描いたように事態は進行していて、だからとりとめのない思考を止めることもなくて、無関心に、泡のようにはじけた思考をそれでも静かに追う。
――フェイズ。
そしていつしか、生まれてきてその名を得て、今まで生きてきた年月を思い返していた。大して長くはないその時間の中で知り合ったひとたち。遠い過去はセピアに色褪せて、新しい記憶は色鮮やかに、脈絡なく浮かんでは消えていく過去の風景。
褪せた記憶が鮮やかな記憶が、記憶の中から呼びかける。
――フェイズ。
けれど捨てた名で呼ばれても返事はできない。彼らの知る「フェイズ」は、あの愚かで弱くて無知だった「フェイズ」はここにはいない。
――フェイズ、フェイズ。
いない人間を捜して、呼びかけ続ける記憶の中の声はいっそ哀れだった。やさしく矮小な彼らは、記憶の中からでさえ彼をいら立たせるけれど、同時にひどく哀れに思う。
「フェイズ、は、もういませんよ」
いっそ寝ぼけているのだろうか。哀れに思うこころが、ふと声になっていた。けれど現在の彼の声は、過去の記憶には届かない。気がつけば泡のはじけるように浮かんでいた思考は、泡のはじけるような音未満の過去の声にすりかわっていた。
けれどか細い声に何度呼ばれても、もう「フェイズ」ではない彼は返事をしない。「フェイズ」ではない彼に返事はできない。その事実を伝えたくても、万能のはずのちからは過去の時間にはどうやら及ばないらしい。
ああ、ではやはり「万能」なんてないのか、と。
諦めに似た、苦笑に似た思考がはじけた。
けれど万能ではないこのちからは、過去の「フェイズ」が持っていたものよりもよほど強大でよほど絶大で、このちからがあれば彼の望みは叶う。
――一瞬の苦痛と、けれどそのあとに続く永遠の安寧。
いや、このちからがあれば一瞬にも満たない、刹那よりも短い時間で「終わり」を与えられる。そうして、誰もが平等で、誰もが哀しむことのない、平穏で、静寂の、永遠をはじめられる。
――フェイズ。
記憶の中の声が、過去の彼を呼んだ。哀しそうな響きに、けれどその哀しみもすぐに終わりますよ、と彼は仮面の奥でやわらかくやさしく微笑む。
彼の意図は誰にも説明していないから、グリゴリを「よくないもの」として排除しようとするものたちの一斉反撃はわかりきっていたし、どうやらその思惑通りに事態は動いている。きっとその先頭に立つだろう相手は「フェイズ」の仲間だった一行で、彼らの実力を知っているからこそ、ここまでたどり着くかもしれないとは思う。
それなら、この宇宙で唯一の希望は彼の手で断ってしまおう。完膚なきまでに。
――フェイズ。
泡のようなか細い声に過去の名前を呼ばれても、「フェイズ」ではなくなってしまった彼に返事はできない。先ほどまでいちいち生まれていたいらだちも、いつかすっかり落ち着いていた。
きっとこんなふうに、この声もすぐに消えるのだろう。
そうだ、ここまでたどり着くかもしれない一行を倒してしまえば、この声もきっと消える。
――フェイズ。
手に入れたかったのは平穏。誰もが平等なやさしい世界。
それを得るためとはいえ、きっと最期に見る彼らの顔は苦痛に歪んでいるだろう。そう思えば生まれるかすかな違和感は、けれど違和感があると認識する前にどこかにとけて消えていく。
――フェイズ!
本当に手に入れたい、この手に欲しいと望むのは。
……キミノ、エガオ、ナノニ。
泡のようにはじける思考に、そのささやかな願いはまぎれて消えて。
時間の凍りついた宮殿の最奥。本当の望みを見失っていることに気づかない彼は、
仮面の奥でどこまでもやさしく微笑む。
