「わんわ、フェイズをベッドにおろすのよ。そーっと、よ」
「わう」
フェイズの腹部を背負うかたちでリムルの後をついてきたケルベロスに頼むと、神妙な返事があった。ので、安心したとたんに、がったーん、と景気のいい――ひょっとしたならこのベッドが、どころか応急処置程度の手を加えただけのこの家ごと崩れるのではと思わず心配するような、そんな音が上がる。
まるで放り投げるようにフェイズをベッドにおろしただけ、にしてはやけに音が派手だった。
「わんわ?!」
「がう」
驚きのあまりリムルが思わず悲鳴のような声を上げたなら、地獄の番犬は何ごともなかったように返事をするなり冥界へ還ってしまった。
ケルベロスは、ことフェイズがらみのこととなるとなぜかリムルのお願いをちゃんと叶えてくれないことが多い。しかも、理由を訊ねても教えてくれない。
「むう」
眉を寄せてから、それどころではなかったことを思い出した。ケルベロスに荷物扱いされた青年をあわてて見下ろす。
「……大丈夫、なのよ?」
返事がないことを知っていながらつぶやいて、念のため癒しの呪紋を唱える。生まれた光は吸い込まれていくように青年の身体に降って、それだけで、彼がどれだけ消耗しているかがよくわかる。
「フェイズの、ばか」
もう一度同じ呪紋を唱えて、それで満足することにして。思わずつぶやいた声に、返事は、ない。わかっていながらそれが淋しくて、彼の頬にそっと手をのばす。
「…………」
つぶやいたはずの声は、たとえ相手が深く深く寝入っていると知っていてさえ、音にならない。そんな自分が哀しくて、気づいてくれない青年が悔しくて、身をかがめると、こつり、額を合わせた。
フェイズが還ってきたとき、トリオムにいたリムルの前に姿を現したとき。伝えようかどうしようか真剣に迷って、けれど伝えなければいけない義務感が僅差で勝利して、確かに伝えたことがある。
――エルダーの人たちは、その生き残りはこの星で集落を作ってそこで暮らしている。
伝えたくなかった理由はリムルのわがままでしかない。それを彼が知ったなら、すぐにでも彼の同胞の集落へと行ってしまうのではないかと思い、それがいやだった。それだけだ。行ってしまって、そしてもう二度と逢えないのではないかと。彼にとっては当たり前のはずのそれが、どうしてもいやだったからだ。
けれど彼は、それをリムルが告げても、そうですか、としかいわなかった。
あのときの彼はたったひとりの長旅の後で、平気な顔をしていたけれど疲労困憊で、それがリムルにもわかった。だから疲れきった身体が回復してから、同胞たちに逢いにいくのかな、とリムルは思ったけれど。
けれど、あれからずいぶん経ったのに、フェイズはいつまでもこの村に閉じこもっている。
二度と彼に逢えなくなるかもしれない、それがいやだったはずだ。今も、そうと想像するだけでリムルの心臓は闇雲に騒ぎ出す。
現在、リムルは祖父と暮らしていた家で、フェイズはその近くの、今はもう家人がウドレーへと引っ越してしまった家で寝泊まりをしている。どこで何をしていても、昼間はたいがいふたり一緒にいても、陽が落ちる時間になると――遅くても、寝る時間になれば。それぞれの家へ帰る。
夜は、ひとりだ。
そのただ寝るだけの時間でさえ。彼の姿が見えないと落ち着かない。知らないうちに同胞の元へ行ってしまうのではないか、それともリムルには想像もつかない何かが彼を隠してしまうのではないか、そんな想像ばかりがふくらんでしまう。
そんな自分を知っているから、だから、彼がこの村に――昼間だけでも、リムルの目が届く範囲にいることは、嬉しいはずなのに。彼を自分のそばから追い出したいわけでは、決してない、のに。
それなのに、落ち着かない。しっくりしない。
だって、同胞たちを忘れたようにふるまうフェイズは、彼らしくない。
大丈夫ではないのに大丈夫だと言い張るフェイズは彼らしいけれど、最近のそれは、なんだか度がすぎているようにしかみえない。
「……あ……」
「起きたのよ?」
「…………リムル?」
深く寝入っていたフェイズがぱかりと目を開けたのは、太陽が中天をこえてそろそろ経つような、そんな時間だった。目を開けたものの事態が飲み込めないようで、そのまましばらく瞬きをくり返している彼の顔を、リムルがのぞきこむ。
「ええと、何が……なんだか急に、眠く、なって……」
「リムが眠りの呪紋をかけたからなのよ」
「ああ、眠りの呪紋……って、なぜですか!?」
さらっと告白すればあっさり反芻して――はっと我に返るとがばりと身を起こしたフェイズに、頭突きをくらいそうになる。あわてて避けたなら、フェイズはいきなりの動きに血が追いついてこなかったらしい。そのままの勢いで力なく前のめりになっていた。
さらりと流れる髪の向こうにのぞく肌は、ずいぶん血色を取り戻している。それを確認して小さく息を吐く。
それに気づかなかったらしいフェイズは、やがてのろのろと身を起こした。
「……だいじょうぶ、なのよ?」
「ええ……確かに、先ほどよりもずっと楽、です。けれどリムル、そういう呪紋は前もって宣言してから使ってください。ぼくはリムルの敵、というわけではないんですから」
「だってフェイズ、寝てなかったのよ」
「それは、否定できませんが……倒れこんだぼくがリムルを下敷きにしていた可能性もあったんです。それでどこかをぶつけて怪我をしたらどうするつもりだったんですか」
「リムにはわんわがついてるから平気なのよ」
「頭をぶつけて気を失ったりしたなら、ケルベロスを呼ぶ暇なんてないでしょう!?」
「フェイズが睡眠不足になってなかったら、リムだって呪紋、使わなかったのよ」
大丈夫かと訊ねて、つらいと返ってきたなら、説明をして呪紋をかけるつもりだった。けれどフェイズは大丈夫だといいはって、全然大丈夫ではないくせにそういいはって、だから無理矢理にも眠らせなければと思った。
焦ったのは確かだ。けれど、リムルの判断は正しかったと思う。
言葉につまったフェイズは、それでも体調の悪かった自分を認めたくないらしい。うっ、と言葉に詰まっていたのがやおらそっぽを向くと、話をそらしたかったのだろう、無理矢理のなんでもない声で、
「……この二年間でずいぶんいろいろな呪紋を使えるようになったんですね」
「…………」
あからさまな話題変換に、リムルはむっと口をへの字に曲げた。
別に感謝をしろとは思わない。結果はどうあれ、リムルのしたのは単なるおせっかいだ。けれどあれだけ心配をかけておいて、それを知って、それなのにそれから逃げようなどとはなにごとだ。
「――ルティねーに教えてもらったのよ」
「なるほど、さすがはルティアさん、」
「フェイズがいない間、リムも夜全然寝れなかったから。心配したルティねーが、おまじないだって、教えてくれたのよ」
「いろいろな呪紋をご存知で……って、え?」
「教えてもらった呪紋、研究して、リム用に組みなおしたのよ。
朝になったら目が覚めるように、モンスターが来たならちゃんと戦えるように、それに、……夢なんて、みないくらい深く眠れるように」
「……リムル?」
「フェイズがもっと早く、リムに相談してたら……ううん、今だってちゃんと認めてたなら、リムはフェイズに呪紋を教えてあげるつもりだったのよ。ほんとよ。
でももうダメ。フェイズにはぜーったいに教えてあげないのよ!」
……何か、いわない方がいいことを口走ったかもしれない。
そう思ったのは、そっぽを向いていたフェイズの顔がこちらに直ると、ぽかんとリムルを凝視したからだった。そっぽを向くのは今度はリムルの番で、フェイズはそんな彼女にただおろおろと視線をさまよわせる。
「……リムル?」
「教えてあげないんだから」
「そ、それはまあ、とりあえずは……ええと、リムル??」
「ふーんだ、なのよ」
「……触れても、いいですか?」
「…………ええっ?」
予想外のことを訊かれて、ぽかんとするのがリムルにうつった。そっぽを向くのを取りやめたなら、笑いをこらえているような、心底困っているような、実に微妙な表情のフェイズがゆっくり手をのばす。
頬に生まれる、なでるよりもやわらかく、けれど彼の触れたところから熱が生まれるような、そんな感覚。
どうすればいいのかわからなくなって、リムルはとりあえず視界を閉ざした。ゆっくり動くフェイズの手の動きを余計に鮮明に感じ取ってしまい、けれど今さら目は開けられない。
そうして、なんだか手とは違う気のする感覚が頬に生まれて、――そっと息を吐くフェイズが、なんだか近い、ような?
「フェイズが! ……フェイズがお願いするなら、リム、夜に、帰る前にフェイズに眠りの呪紋かけてあげるのよ!!」
「……それだと、リムルに夜道を一人歩かせることになるから、ダメですよ」
「この村にはまだリムとフェイズしかいないし、モンスターは入ってこないようにしてるし、わんわだっているから平気なのよ!」
「きみはそうかもしれませんが、ぼくが納得できません」
「でもフェイズが夜また寝れないなら、リムはそれが認められません、なのよ」
「女性が夜に一人歩きするものではないです」
「寝れないことは認めるのよ?」
「……ッ!!」
結局。
夜まで続いた大部分平行線のいい合いは、フェイズとリムルが同じ家に寝泊りすることで何とか折り合いがついた。というか、なかばリムルが脅迫するかたちでしぶしぶフェイズに承諾させた。
ただし。
その後実際にリムルが眠りの呪紋を使ったかというとそうでもなく――互いの睡眠障害は、なぜか同居をはじめた時点で解消していた。
その理由は、わからない。
リムルは薄々理由が想像つきながらも力いっぱいそれを否定して、フェイズはどうやら、嘘かけねなしの素で理由の想像がつかないらしい。
