ガガーン総司令に提出するレポート用の資料をまとめているときだった。レムリックの土着伝承についてふと浮かんだ疑問。別にそれを今すぐに解消する必要はなかったけれど、どうしてもそのままにしておけなかった。
自分の悪い癖だと知っている、わかっている。けれど、把握していながらも好奇心を抑える方法までは修得していない。……まだ。
なにしろ、この船には現在そのレムリック出身の少女が乗っているのだ。そして質問をしたならあっさり答えてもらえそうな、実に些細な疑問でしかない、と思う。
しばらくは我慢しようとした――多分百数えるよりは短かったけれど。
結局どうしようもない好奇心に衝き動かされて、データを送り込んだボードを手に立ち上がる。部屋をのぞいてもしも寝入っているようなら、あるいは何かに集中しているようなら邪魔をするまい、とは思っていた。自分ひとりの好奇心だし、くどいけれど今すぐそれを解消しなければならない理由はどこにもない。
「リムル、ちょっといいですか――」
なにやら透明の板を眺めながら無遠慮に部屋に入ってきた青年が、ふと足を止めたのがわかった。しばらく無言だったのは呆然としていたからだろう。何気なく振り向いたならうつむきがちにぶるぶると細かいけれどそのぶん激しくふるえている。
ああ、これは怒鳴られるな、と思ったからこころの耳のふたを閉じた。――実際にはそんなものないけれど、そんな気持ちになってこれから起きるだろうことに身構える。実際に耳をふさぐとさらに大声でわめかれることなんてとっくに知っていた。
自分が何をするとこうなるかは、わかっていたけれどやめるつもりはない。
それが悪いことだとは、何度怒られても諭されても納得できたためしがない。
「何を、しているんですか」
気づいたらとがった声が出ていた。――違う、違うのに。
彼女に割り振られた部屋の床――どころか壁面、彼女の手の届く範囲には一面紋様が散りばめられている。振り向いた少女の手元を見るまでもなく、このすべてを彼女が描き出したことなんてわかりきっている。それも何日もかけて、であるはずがない。多分今日の、食事を終えて今までの数時間で。
はじめてこれを見たのは、彼女の存在すら知る前の、あの村に最初に踏み込んだとき。古びた木の箱に落書きのように残された、消えかけたつたない断片だった。
あの時は、エルダーのものと似ているけれど違う紋様に単純にこころがおどった。
今は。それを見るごとにこころにうずくものがある。
見るたびに複雑に精錬されていくそれのすばらしさは、呪紋使いなら理解できるだろうけれど――あいにく、この船に呪紋使いは少女と彼しかいない。船長も呪紋を扱う才能はあるけれど、生まれ育った文化が違うのでこの紋様の美しさを理解することはできないらしい。副官にいたっては「それ」を「らくがき」としか見ない、そうとしか見ることができない。
感覚的なものだし、生まれ育った文化も違う。だからそれは仕方ないと思う。言葉を尽くして説明したところで、――それに確かに、この船が少女の私物ではないことは事実だ。
――ただ、
かたくつめたくひらたい声に、ああ、やはり怒られるのだなと思った。誰も彼も、大人はみんな同じ反応をする。別に無理をして理解されたいとは思わない――はずなのに、なぜ今、いつもに増してこころが冷たいのだろうか。
「見てのとおりなのよ」
「きみの口から説明を聞きたいのですが」
「おえかき、してたのよ。えーたんのおうちはひらべったくてでこぼこしてなくてつるつるだから、とってもかきやすいのよ」
「……レイミさんが、さんざんいやがっていたでしょう」
「むう」
目くじら立てて怒られることはもはや慣れっこだけれど、哀しそうに名前を呼ばれると、さらにそれがレイミだとこころの底にちくんと痛みが走る。
悪いことをしているつもりはない、これは描かれた対象物の防御の力を高めるもので、決して悪戯ではない。けれどレイミにそう説明したことはない。エッジにも。呪紋を扱うなら見れば紋様の意味はわかるものだ――レイミは呪紋の資質がないからわからないのかもしれないけれど。
――ああ、そうか。
ちゃんと説明しなければいけないことなのか。レムリックでも呪紋を扱うのは女性、しかもその中でも一握りだ。男性はその不思議のちからを、すでにあるものとしてとりたてて怖がったりしないけれど、結局は自分で扱うことのできないちからだから「こわいもの」としてみているのかもしれない。説明したなら、理解してもらったなら「怖いもの」ではなくなるかもしれない。
でも。説明してもわかってもらえなかったなら――それはたぶん、きっととても淋しい。レイミは絶対にこわいと思わないと知っていても――リムルを不気味な存在と見ないと知っていても。一生懸命説明して、けれどわかってもらえなかったなら。
レイミを好きなのに、哀しくなる。レイミを好きだから哀しくなる。
だったら説明なんてしたくない。説明をしないからわかってもらえなくて、だからしかられる方がいい。
絶対にその方がいい。
一瞬、いつだって無表情な目になんか感情の波が揺れたように見えた。けれどそれは見間違いかと思うくらいにほんの一瞬で、すぐに静けさの中にとけて消えてしまう。本当に気のせいだったのかもしれない、見間違いだったのかもしれない。それでも、確かにその揺らぎを見たような気がする。
くちびるを引き結んで、人形めいた硬質の無表情が見上げている。
――なぜ。
過去にきっと何かがあった。
見た目は幼いけれど眼差しはそうではない――ときもある、幼さに見合わない強大な術を扱う少女。地獄の番犬を「わんわ」と呼び、苦もなく従えてそれが彼女の当然だと知っている。
限界が、わからない。船長も副長もそうだけれど、もちろん自分の限界もそうだけれど、いちばんわからない、見極めができないのがリムルだ。どんなに深く見積もっても、それさえ上げ底だと思う。もっともっともっと、深く広く豊かに。無限とさえ思える何かを彼女は持っている。深淵を覗き込むにも似た恐ろしさと、けれど目をそらしてはいけないと思わせる魅力と、そして目をはなすわけにはいかない淋しさを。リムルは持っている。
だからこんなにも、惹かれる。
もう、出逢う前の平和だった自分には戻ることは、
何かをいいかけて、事実口を開いて、けれどフェイズはそこで口を閉じた。くちびるを引き結び、きびしいような突き放すような、そのわりに置いていかれた子犬のような目をする。
ざわざわする。
叱られたくはない、見捨てられたいわけがない。けれど理解されるのはこわい。生まれたときからずっと一緒だった祖父とは違う、つい最近現れた彼に、それなのにこころ引き寄せられる自分をリムルは知っている。
――なぜ。
未来にきっと何かがある。なんとなく、漠然と予感めいたものがある。
大人びて見えて、そのくせにときどき自分よりも幼いようにも見えて。細身の剣を自在に扱うくせに、術だってたしなみ以上に強力なものを扱う。ときどき視野が狭くなるようだけれどこれといって欠点なんて見当たらなくて、何でも持っていてずるい。それなのに、何も持っていないと思っていて必死に努力を重ねるから、きらいぬくことができない。
目をそらすことができない。
何がとはわからない、けれどフェイズの何かが気になる。気になるからそばにいたくて見届けたくて、けれどそうと知られたくない。矛盾する想いをフェイズは抱かせる。
だからこんなにも、惹かれる。
もう、出逢う前の平和だった自分には戻ることは、
そのまま、どれだけの時間が流れたかはわからない。食事の時間を告げる副長の声に、二人同時にはっと我に返る。それまでの自分の思考も、どんな表情を、態度をしていたかも、むしろ穴が開くほどに埋めていたはずの相手のことさえ。何も覚えていなかった。
「いくのよ、フェイズ。リムおなかぺこぺこなのよ」
「ええ、そうですね……って、これをこのままにするんですか? レイミさんと同室でしょう、リムル。彼女がこれをみたなら卒倒してしまいますよ」
「れーたんはそんなにヤワじゃないのよ」
「卒倒はいいすぎにしても、……本気でこのままのつもりですか?」
「フェイズはいつも細かいことばっかりうるさいのよ」
「なっ……ぼくはきみのためを思ってですね……!」
ぎゃあぎゃあいいあいながらとりあえず階下へ向かう。
いつもどおりでいられることに、ほっとしながら。けれど、互いにこころの奥で願っていたことは、
