――たったそれが聞こえただけで、とくりと胸が騒いだ。
――こころにわき上がるこの感情の名前を、しらない。
土だらけのエッジの故郷のあとに、レムリックよりも緑豊かな世界にたどり着いた。吹き抜ける風はさわやかで冷たくなくて、トリオムのすぐそばの湖よりもよほど青くて透明な水には白い波が立っていて塩からくて、――その水の固まりは、海、というらしい。
きれいな星ね、とレイミが感嘆の息を吐いた。
エッジは相変わらず沈みっぱなしだけれど、メリクルも、そしてバッカスも。自然豊かな星に、それまでどこかこわばっていた表情がやわらかくなる。
草がふちを囲んだ空き地にカルナスを停泊させて、坂道を降りた先には透明で青くきれいな海があった。触れてみたならリムルの知っているものよりも水は温かく、お風呂というには冷たいけれど、泳ごうと思ったならそれは問題ないだろう。
靴を脱いで一緒に脱いだ靴下を丸めて靴に詰めて、ドロワーズをたくしあげてこわごわ波打ち際を歩く。水と一緒に足の指をすり抜けていく砂はざらざらでさらさらでくすぐったいけれど悪いものではなく、思わず頬がゆるむ。
それはほんのかすかなものだったけれど、この船のメンバーは目ざとかった。メリクルがレイミの脇をつつき、それまではずっとエッジを気にして暗かった彼女の表情がふとゆるむ。きっと姿を消したバッカスにも同じように気づかれていただろう、そして。
「――ああ、あんなに嬉しそうな顔ははじめて見た気がします」
風の流れが変わって、リムルの背後の会話が流れてくる。
「どうやらこの星はずいぶん彼女のお気に召したようですね」
――たったそれが聞こえただけで、とくりと胸が騒いだ。
ほとんど表情の変わらない、変えられない自分を知っている。だからどんなに嬉しく思ってもきっと見た目はほとんど変わらないのに、それに気づかれたと知ってざわざわする。
ほかのメンバーには、そう知られてもどうとも思われなかったのに。それがフェイズだとざわざわが収まらない。
通常なら表情ひとつで伝わることなのに。他の誰に知られてもどうとも思わなかったのに。表情が乏しいと自覚しているからことさら大げさに感情を身体で示す癖が身についている、だからこそ皆に知られたのだとわかっている。わかっているのに、同じことをフェイズにも気づかれた、たったそれだけなのに。
ここが気に入った、と見破られて。
こんなにも落ち着かない。
――ただ、それがフェイズだと思っただけで。
とくとくと心臓が痛いほど鳴っている。それはきっと、水際ではしゃいだせいだと思おうとしても。
きっとそうではないことを知っているから、自分で自分をだませない。
はねるように、おどるように。
小さな身体ひとつ、めいっぱい動かすリムルから目がはなせなくなったのはいつからだろう。それは見た目の愛らしさなんて何のその、幼さに見合ったいたずらをくり広げるリムルだから、かもしれないけれど。――本当は、それだけではない自分をこころのどこかは知っている。
だって、そうでなければ。
靴も靴下も脱ぎ捨てて、無表情は変わらないまま、けれど身体全体で楽しそうに水際を歩くリムルをいつものように見ていると。なんだか口元がほころんでいく。
「――ああ、あんなに嬉しそうな顔ははじめて見た気がします」
それは誰に向けてのものでもなくて、ただの感想――あるいは自分にいい聞かせるようなものだった。何のために、かはよくわからない。ただ、ことリムルに関することはなぜかことさら口に出すきらいがある自分に、フェイズは最近気づきはじめた。
それがどうした、とは思う。――思うけれど、それだけではなくて。
「どうやらこの星はずいぶん彼女のお気に召したようですね」
口に出して、ああ、なるほどと自分で自分に納得する。確かに彼の視界の先のリムルは――いつものように体重がないもののようにはねておどって、ステップをふむその脚の動きを真似るようにきらきらと水がおどってそれに陽光がはねて、それだけではなくてとても楽しそうだ。
リムルの生まれ育った星はどうやら年中寒いらしく、だからきっとこうして水際を素足で歩くなんてはじめてなのだろう。表情の乏しいのが、ことさら残念そうにも見える。こころの内がわからわき上がる感情を顔に出したいと、それができなくてもどかしく思っているような――もちろん、そんなもの、フェイズの思い込みかもしれないけれど。
故郷は、特別だろう。たとえばフェイズにとってのエルダーのように。
太陽の寿命がすぐそこだとわかっていても。すでに巨星化がはじまっていて、だからすでに厳重な設備や頑丈な装備なしでは本星地表に降り立つことさえできなくなっている今でも。彼の生まれたころにはすでにそんな状況で、だからフェイズはエルダー本星に降りたことはないけれど。それでも、たとえその大地を踏みしめることができなくても、フェイズにとっての故郷が特別なように。
年中冬しかないあの星も、リムルにとって特別なものだと思う。
けれど。頭の中をのぞき込むなんてできないけれど、今のリムルはレムリックのレの字もないはずだとなぜか確信している自分がいる。それが、驚きや喜びや、そんなプラスの感情からくるものなら、それをもたらしたこの星は彼女にとっていいものだろう。そう思えば、なぜかたったそれだけがこんなにも――かみしめるように、嬉しい。
なぜだか、喜ぶリムルを見るとフェイズも嬉しくなる。
これだけ美しく自然豊かな星に、嫌悪感なんてあるはずもない。けれどそれ以上にリムルを喜ばせてくれたと思えば、なぜだか愛おしいに近いほどの好意感情がわき上がる。
リムルの、相変わらず無表情――なのになぜか喜んでいるとわかってしまう、あんな表情を見てしまえば。
こころにわき上がるこの感情の名前を、フェイズはしらない。
しらないけれど、それでも、
「……この星にきて、良かったと思います」
それがたとえ事故やら偶然やらの結果だとしても。
いつか立ち止まっていたリムルが、なぜかじっとフェイズを見上げていた。
そのほほがかすかに上気しているようにもみえて、けれどこの陽光のせいだろうとフェイズはあっさり結論づける。
