くすん、と鼻の奥が音を立てる。

―― 傍にいるだけで満足できたら

黒いマントの女性にフェイズが惹かれていることなんて、最初からわかっていた。笑顔がきれいで明るくて親切で、そしてフェイズの、リムルも知らない召還術を扱う人。
もっと時間があったなら、どこかルティアを思わせるそのひとにリムルだってなついていたかもしれない。ほんの一言二言交わしただけでも、リムルさえ彼女をきらいになんてなれないのだから。
黒いマントの女性にフェイズが惹かれていることなんて、最初からわかっていた。――だってそのころには、もう、リムルは常にフェイズを気にしていたのだから。
一言、二言。マントをもらった――借りただけかもしれないフェイズも、リムルに比べてそんなに長く話していたわけではない。たったそれだけの鮮やかな記憶だけを残して、――その後彼女に会うことはなかったけれど。どんなに探しても、リムルは彼女の姿をみることがなくなってしまったけれど。
けれど、忘れることはできない。
――フェイズが、その人を想っている限り。
いっそ、忘れられたらと祈るように願うのに。ずっとずっと、彼女のことは鮮やかな思い出として脳裏に張りついている。

◇◆◇◆◇◆

吐き出した息に、重さはなかった。ただ、ふつうの呼吸と比べたなら――ほんの少しだけ違う、そんな呼気。そのとき通りがかったのがミュリアでなかったなら、他の誰かだったなら、きっと気づかれなかったはずだ。
「……恋の、悩みかしら?」
だから、すれ違ったはずの彼女に後ろからそう話しかけられて、びくりと肩が跳ね上がった。驚きと、そしてそれ以外と。いろいろないまぜになった感情を起伏の少ない目の奥から拾い上げたのか、紅を引いた唇が、その艶に比べてずいぶんやわらかく微笑む。
「ぼうやのこと?」
「……えーたんにはれーたんがいるのよ」
つぶやいた声ははりがなくしおれていて、手入れされた細い眉が片方、ぴくりと跳ね上がる。
「あら、それならもう一人ね? まさかここでバッカスがでてくるとも思えないし」
手近なソファに誘われて、腰かけると同時にどこから用意したのかジュースのカップを渡される。お礼をいってカップを両手で受け取って、一口含めばそれはのどにさわやかでおいしくて、そしてなんだかひどく懐かしい感じがした。

くすん、と鼻の奥が音を立てる。
のぞき込む蒼い瞳はやわらかく微笑んでいる。
――自分のこころが、騒いでいるのか凪いでいるのかわからない。

◇◆◇◆◇◆

「なんでか、もやもやするのよ」
ゆっくりと干していくカップが空になるまで、ミュリアはなにもいわなかった。うつむいた動きでリムルの頬にかかった髪を、しなやかな指がすくい上げる。
「あの黒いマントを、それをくれたひとを、フェイズが気に入ってて、だからずっと気にしてるなんてわかりきってて。たったそれだけが、たったそれだけなのに、ざわざわするのよ」
小首をかしげたためにさらりと流れたミュリアの髪から、いい匂いがする。
「フェイズなんてどうでもいいのに。それなのに、なんだかいやなのよ。フェイズが遠くなると、おむねがしくしくするのよ」
からになったカップのふちに、歯をたててみても。リムルの知らないかたい感触は、何のあとも残さない。それがなんだか悔しくて、けれどばからしくなって顔を上げて、やはり微笑んでいるミュリアがやさしくカップを取り上げて、おとなしくそれから手を離す。
見るとはなしにカップの行方を追う目。うわごとのように、くちびるが動いて言葉を紡ぐ。
「もやもやもざわざわもしくしくも、なんでなのかわからないのよ。わからないのが、いやなのよ。
でも全部フェイズのせいなのよ、全部フェイズが悪いのよ。……ぜんぶ、」

◇◆◇◆◇◆

ミュリアは、やはりなにもいわなかった。ただ、リムルの見えないどこかにカップを片づけてから、おいで、と腕を広げてくれたから。ぼんやりとまたたいて、それに甘える。
髪だけではなくてミュリアはいい匂いがして、やさしく背中をなでられたなら、もうずいぶん長い間凍りついている感情が、凍りついていた感情が、涙が、
こぼれてしまいそうで、

くすん、と鼻の奥が音を立てる。
なんだか泣きだしそうなのに、潤みもしない目をそっと伏せる。

――ただ、そばにいる。
今のリムルが、フェイズとの今の関係に満足できたならよかった。あの星を発ってから日に日に昏い光を宿すフェイズの目に、気づかないでいられたらよかった。
彼が誰に惹かれようと、関係ないのだと。
――もしもきっぱりそういいきることができたなら、それはどれだけ幸せだったのだろう。

―― End ――
2009/10/17UP
仄恋十題_so4フェイズ×リムル_
OFP
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傍にいるだけで満足できたら
[最終修正 - 2024/06/17-13:40]