数日前にはじめて星の海に出た。
レムリックでは星の船とは神さまの乗りものだったから、それに乗ったことがある人間なんて誰もいない。トリオムやウドレーでは誰よりも尊敬されている歴代のアラネアの巫女でも、乗ったことがある人なんて当然誰もいない。話でも聞いたことのないエッジの星の船は、だから、リムルの目には当然のように何もかもが不思議でできている。
祖父を亡くした哀しみや、故郷から遠い旅に出たのだという緊張や、そういったものはあるけれど。けれど、今のリムルには見るもの聞くものすべてが不思議で新鮮で、ただ散歩するだけで物珍しさに目が回ってしまいそうだった。

―― 秘めて隠して、押し殺して

――そんなに大きくない船だけど、なんてエッジはいっていたけれど。
「むぅ……」
とんでもない、今のリムルには広すぎて大きすぎて、――おかげで、
「……なんだか、ここがどこだかわからないのよ……」
迷った。

物珍しさから気分任せにうろうろして、それでなくても似たようなドアがいっぱい、似たような部屋がどっさりのカルナスは、慣れないリムルを迷わせるのに十分だった。
というか、たぶん同じところをぐるぐるしているのだと思う。本日何度目になるのか、来る気もなかった脱衣所にたどり着いたリムルはその場に座り込むと口をとがらせた。

◇◆◇◆◇◆

スタートは彼女に割り当てられたレイミとの相部屋。ゴールは……この際なんでもいい、知っている場所、もしくはこの船のクルー。探検は楽しいけれど、そろそろ疲れてきた。ゆっくり休んで続きは明日にしたい。というか、よく知らない場所に一人ぼっちは心細い。

「……全部おんなじなのがよくわからないのよ。看板とか出てればいいのよ」
つぶやいた声は高い天井にかすかに反響して、それだけだった。誰もいないから当然同意も反論もなくて、むなしくなって立ち上がる。疲れたといっても、いざとなればケルベロスを召還してその背に乗せてもらえばいいので、そんなに逼迫しているわけではない。まさか本当に体力を使い果たして動くことができなくなったとしても、滅多に人の通らない雪山ではなく、ここはちゃんと人が動かしている星の船だ。最悪食事の時間になれば、きっと誰かがリムルを探してくれるだろう。
「あ、そうなのよ」
そこまで考えてリムルはぽむと手を打ち合わせた。ケルベロスだ。
いつものように呼び出して、その黒い毛並みに全身で抱きつく。クゥ、と甘えたような呆れたような小さな鳴き声に毛並みから顔を上げた。
「わんわ、においを探してほしいのよ。えーたんかれーたんか……この際フェイズでもいいのよ。フェイズでも、仕方ないけどかまわないのよ」
そうしてお願いして、よじよじと背によじ登った。賢い地獄の番犬はリムルが腰を落ち着けるまでじっと待っていてくれて、おもむろに歩き出したのに、なんとなくその頭をわしわしとなでてやる。

――そんなに大きくない船だけど、なんてエッジはいっていたけれど。
それでも慣れていないリムルには十分に広すぎて、おかげで迷ったりしたけれど。
実際、確かにそんなに大きい船ではないらしい。

◇◆◇◆◇◆

ずんずんと迷いなく、においをかいで確かめる仕草さえなくケルベロスは進んで行って、果たして聞き覚えのある声がリムルの耳に届いた。ぱふっと毛並みを軽くたたいて合図をして、すべるようにおろしてもらって、けれどなんとなく還ってもらうこともなく、一人と一匹で連れ立って声に近寄る。
エッジと、そしてフェイズの声だった。世間話でもしているのだろう。どこかのんびりリラックスした声からは、星の船を操る時のあのきびきびした緊迫感が感じられない。
「――僕にとってのレイミは、そうだなあ、妹みたいな感じかな」
「妹、ですか」
「うん、妹みたいな、……まあ、レイミはしっかりしているから、時々姉みたいな感じもするけど。でも年下だからな、レイミは」
「はあ……なるほど」
曲がり角の向こうから聞こえてくる声に、そんなつもりはなかったけれど、だいぶ心細かったらしい。ほっとして思わず小走りになろうとしたリムルの足が、けれど、
「……ではぼくにとってのリムルも、そんな、妹みたいな感じなのでしょう」
けれどフェイズの声で、ぴたっと止まった。

もしもリムルに年相応の感情が、喜怒哀楽が表現できたなら、そういった感情がそのまま顔に現れていたなら、果たしてどんな表情を浮かべていただろう。迷って心細かった直後だったからもあるかもしれない、大きく波打ったこころは、そこにあった感情は、果たして何だっただろう。
それがエッジの言葉だったならなんとも思わなかったかもしれない。あるいはそれをエッジがいったなら、それを聞いたなら、ひょっとしたら単純に嬉しかったのかもしれない。
リムルのことを、妹と、いった。
ただ、そういったのはエッジではなくて、
――それは確かに、フェイズの声だった。

◇◆◇◆◇◆

かあぁっと頭の芯が熱を帯びた。相変わらず人形めいた無表情のまま、けれどリムルとこころでつながっているケルベロスのなめらかな毛並みがぶわっと逆立った。彼女は何も命令したつもりはなかったけれど、脇にあった獣が黒い弾丸となって飛び出していく。
フェイズの悲鳴と、エッジの驚く声が、なんだか遠かった。
確かに聞こえたけれど今も聞こえるけれど、そのけたたましいはずの声がなんだか遠くて、表情の変わらないまま、それでもリムルのこころがざわざわと荒れている。彼女の感情のあおりを受けたケルベロスは曲がり角の向こうで存分に暴れ狂っていて、止めなくてはと思うのに、思ったはずなのに身体もこころも何も動かない。
フェイズの言葉が嬉しくなかった。
嬉しくなかったけれど、嬉しさではないこのこころが何なのか、リムル本人にさえわからなかった。

その感情の裏にあるものが何なのか。
知っているかもしれない、わかっているかもしれない。けれど、今は、
今のリムルには何もわからない。

―― End ――
2010/09/09UP
仄恋十題_so4フェイズ×リムル_
OFP
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秘めて隠して、押し殺して
[最終修正 - 2024/06/17-13:41]