「ねえ、エッジ」
生活に不自由はないけれど、小さな不満はどうしようもない。いろいろもろもろを考えて、どうしようもないことだとわかってはいても。
普段はこれ以上ないほど有能な副官の、ちょっとしたわがままに船長は頭を抱えていた。いい出した当人もそれがわがままだということはわかっているため、絶対に何とかしろと意固地になったりはしない。しないけれど、時おりくり返し思い出したようにぽつりとこぼされて、それは若く生真面目な船長にはちょっとしたかなりのボディーブローだったりする。
「どうしたんですか、エッジさん?」
「いやあ……大したことじゃあ、ないんだ」
「でもえーたんずーっとむずかしいおかおでうんうんうなってるのよ」
「ええ、ちょっと気になります」
「え……そんなに顔に出てた、かな?」
「レイミさんを見るたびに、まあ……ちょっと引っかかるくらいには」
「そうか……僕もまだまだだな」
ワープ中のカルナスの楽しみといえば副長が腕を振るう三度三度の絶品料理で、カルナスクルーはその日も用意された分をぺろりと片づけて食後のお茶を楽しんでいた。いや、心底楽しむにしては、その日はどうにも気になるものがあった。
いつもにこやかに給仕をしてくれる敏腕の副長と、
そんな彼女の笑顔を見るたびになぜかぎごちない笑顔になる船長。
いや、船長自身も食事は心底楽しんだけれど。副長の笑顔はいつもどおりの華やかで美しいものだったけれど。
あちゃー、と困ったように笑ってみせる船長を、だからといって何ごともなかったことにして解散するこころないクルーではない。むしろますます眉を寄せて詰め寄る二人に、そのうち彼は降参の意味をこめて両手の平を見せた。
「レイミがさ、やっぱり無理だよねって笑うからさ……どうにかできないかなって」
「なにを、ですか?」
「れーたんのお願い、きいてあげたいのよ」
「僕だって叶えてあげたいけどさ、こればっかりはなあ」
食事の片づけ――使った食器を食洗機へ運ぶだけ――も終わり、忙しい副長はフライトデッキでの定期業務に就いている。別に彼女に秘密にするつもりはなかったけれど、なぜかこっそり声を落としてひそひそと三人で輪を描く。
「いや、何というか……発作的なことなんだけどな」
「そうもったいぶらないでください、エッジさん」
「そういういいかたされると気になるのよ」
本当に大したことじゃないんだ、とくり返す船長。それでは納得しないクルー。無言のまま目線だけの攻防がひとしきり、やはり船長は熱心なクルーに負けた。
「我らが敬愛する副長は、風呂に入りたい、だそうだ」
別にもったいぶったつもりはないけれど、歯切れの悪い船長はクルーたちにそう映ったらしい。ぼそっとこぼせばきっと確実に想像と違ったのだろう、たった四人しかいないカルナス船員のうち半分は、がっかり半分困惑半分の顔になる。
「風呂……ですか? レイミさん、シャワーはよく使っていらっしゃるようですけど」
「れーたんはきれい好きなのよ。リムもよくからだ洗ってもらうし、れーたんもいつもつるつるすべすべつやつやさらさらなのよ」
その場の唯一の女性クルーの証言に、あわや具体的な想像をしそうになったところで男性二人はそろって首を振ることで妄想を脳内から追い出した。今の話題はそれではない。
「いや、この場合レイミがいうのはこう……なんていうのかな、バスタブに湯を張ってのんびりつかる方の風呂なんだ」
「シャワー、ではないんですか?」
「ニッポンの古い文化でセントウとかオンセンとかいうやつだよ。たっぷりのお湯にゆったりつかって、身も心もリフレッシュするっていう。
……いや、正直本物のオンセンとなると僕も文献でしか知らないけど」
「? エッジさんもよく知らないんですか?」
「レイミの風呂好きは有名だけどさー。いや、有名なのはサイオンジ家なのかな。
あそこんちの風呂にかける情熱はすごいぞ。地下暮らしでいろいろ物資が足りない、家柄やら財産やらさえ関係ない大戦終了直後でさえ、環境衛生を盾にして公衆浴場の建設を主張して頑として引かなくてさ」
「……はあ」
「苦労して持ち込んだはずの私財をなげうって、場所と資材と水源を確保して、水質調査はもちろん、ボイラーと循環施設の手配までしてたな。
やっとこさ作ったあとはそこの管理。名高い上に忙しいはずのサイオンジ当主自ら、鼻歌まじりにデッキブラシで掃除してた。さすがに時間が確保できなくなったらしくて、そのうち専門に管理人雇ったけど」
「そこまで」
「まあ実際あの公衆浴場は嬉しかったしありがたかったけどさ。
作業でどんなにどろどろに汚れても、温かいきれいで安全なお湯を自由に使えるっていうのは、僕だけでなくみんな諸手を上げて大歓迎だったよ。循環施設フル稼働で、さすがに無制限とはいかないまでもかなりふんだんに使えたし。
あと、サイオンジの公衆浴場圏内の住民の感染症発症率は飛び抜けて低かったって後になって聞いた。人気取りにあやかりたいって真似しだした地方権力者も多かったっていう話だけど、熱意と情熱の差なのか他のとこではなかなかうまくいかなかったらしいよ。それだけ大変だったんだよなあ」
「……なんだかすごいのよ。よくわかんないけど」
「まあ、あいつの風呂にかける情熱は親譲りだってことで。
けどなあ。どうにかしてやりたいけど、カルナスに風呂設備はちょっと無理なんだよな」
「……シャワールームの手前の脱衣所にバスタブを置けば?」
「お湯はわんわに頼めばわかしてもらえるのよ」
「それは一応考えた。ケルベロスに頼んで湯温の調整するより、シャワーそのまま引き込めばいい話だし。けど、排水設備はされていても、脱衣所に水気そのものを持ち込むのは想定外だろ? 蒸気の影響とかをちゃんと調べないと、ちょっと気軽に試せない。
で、そこまで大がかりになるとレイミの気が引けるらしい……どうしろっていうんだ」
「それで悩んでらしたんですか」
「ダメもとだってわかっててぽつりというもんだから、よけいに気になるんだ……」
「れーたん……」
船長の肩が大きく上下して、つられるように残す二人のクルーからも大きな息が吐き出される。
「ガガーン総司令に報告して、エイオスに温泉施設を建設してもらいましょうか? 先程のエッジさんのお話ですと、衛生面だけではなくて精神上もいい効果があるんですよね? 施設改善案のひとつとしてねじ込めると思います」
「レムリックにセントウ作るのよ。よくわからないけど、わんわにたのめばきっとなんとかしてくれるのよ」
「ああ、そうだなあ……今度エイオスに寄ったときにちょっといろいろなとこに相談してみようか。カルナスの改造も、プロに頼めばひょっとしてどうにか……」
「どうにもしないでいいです! もう、エッジ!! 大ごとにしないでねって念押ししたでしょう」
ぱこん、と船長の頭がボードで軽く叩かれた。噂の副長が子供じみたふくれっつらで立っていて、どうやら話に夢中で彼女の接近にまるで気づかなかった三人は、別に悪いことをしていたわけでもないけれど、いたずらが見つかったような罰の悪さに肩をすくめる。
「船長、ムーンベースから通信がきています! フェイズさんもリムちゃんも、この件はこれでおしまい。ほら、通常業務に戻って」
「でも、レイミ……」
「わたしの発作的なわがままってわかってるでしょう? そんな真剣に取り合わないでよ、もう。恥ずかしいじゃない」
「ええと、」
もごもご反論しようとした船長の鼻先に副長の指がびしりとつきつけられる。
「一人のわがままでクルー全体に無理をさせたいわけじゃないの」
「……真面目に考えてくれて、ありがとう。みんな」
そしてにっこりと完璧な笑みを浮かべられて、その話はそこまでになってしまったけれど。
一行の旅が終わるまで、同じような騒ぎが何度かくり返されたのは、また別の話。
