「あんた、馬鹿だろう」
赤毛の女がそうつぶやいた。
「……あァ?」
唐突なその言葉に、彼は凶悪な表情を浮かべた。
ある日の夕刻。街に着いた一行はまず宿を確保して、後はクリエイションなり買い出しなり散歩なりと各々好き勝手に解散した。
そんな中、彼――アルベル・ノックスは宿屋のベッドでうつらうつらしていたのだが。七割方眠った耳にノックの音が届き、夢うつつにぼーっとしているうちにそれは止んで、しかし蝶番の軋むかすかな音とするりと近付いてくる気配。
完全に殺した足音と躊躇なく近寄ってくる気配は、知ったものだったので。アルベルは目を閉じ半ば以上眠ったまま、特に反応しないことにする。
気配はやがて彼の寝ているベッド脇で止まった。そのままじっと彼を見下ろしている。
「……何の用だ」
ゆっくりと目を開ければ、深く澄んだ紫がただ静かに彼を映していた。
「寝首でも掻きに来たか?」
軽口をたたきながらゆっくりと瞬く。気配の主、赤毛のクリムゾンブレイドはそんな彼に呆れたように肩をすくめてみせた。
「本当にそのつもりなら最初から気配消してるし、とっとと用を済ませて今ごろ宿を出てるね。馬鹿言ってないで起きな」
「だから、何の用だ……」
そのまま寝入りそうな声に、彼女――ネル・ゼルファーの眉がぴくりと跳ね上がる。
ぎゃんぎゃん騒がれるのが目に見えていてそれは面倒で、仕方なくアルベルは身を起こした。乱れた髪に手を突っ込んで、でっかいあくびを一つ。ネルがさらにため息を吐く。
「……脱ぎな」
「あ?」
本気でわけが分からなくて、思わず反応が遅れる。彼女はいつものように腰に手を当てると、大袈裟に首を振っていた。
「あんた、馬鹿だろう」
「……あァ?」
唐突なそのつぶやきに、彼はこれには瞬時に凶悪な表情を浮かべる。しかしネルはそれに取り合わずに右手を伸ばし、やけに優雅に彼の左腕、鉄爪の一点を指した。
「さっきの戦闘で怪我したのをほっといてあるじゃないか。心配してほしくないならもっと上手に振る舞いな、パーティ全員にバレてるよ」
指された場所、左腕、肘の少し上あたりに無言のまま視線を向ける。じわじわとにじむ血が鉄爪の隙間の暗い色の布に広がっていて、ところによっては変な風に乾いてごわごわになっていた。
「……」
アルベルはやはり無言でネルに目を戻す。彼女は荷物入れから治療道具を取り出している。
「怪我したならすぐ言えば良いのにさ。……無駄な意地張るんじゃないよ、力ずくでも手当てするからね。さあ、とっとと傷を診せな」
「……ちっ」
命令されるのは面白くないことこの上なかったが、確かにこんなことで逆らってもしょうがない。
舌打ちを一つすると、アルベルは鉄爪に手をかけた。
実のところ左腕を、そこに残る重度の火傷の痕を見せることをためらっていられたのは、王の命令でパーティに入れられて数日が限度だった。
いちいち甘いくせに、頑固で押しの強い人間がなぜこうも集まっているのか。別になんの意図もなく、かったい鉄爪したままじゃ寝るのに邪魔じゃないのかだとか敵の返り血浴びてるじゃないそれはずして洗いなさいよねだとかおいおい風呂入らねえ気かよそれとも男のくせに他人の前で脱ぐのが嫌なのか女々しい奴だなだとか、そんな風に言われれば早々にあきらめざるをえなかった。
――最後の台詞を言った阿呆には、手加減なしの一発を叩き込んでおいたが。
鉄爪を外してその下の長手袋も取り払い、きっちりと巻いた包帯に広がる朱の色に再び舌打ちをする。アルベルがその包帯をほどこうとしたところで横から手が伸びて、後はベッドに腰を下ろしたネルに任せることにした。
事務的に、しかし優しく丁寧に血のにじんだ包帯を外す華奢な手。整った美しさならマリアの方が数段上だが、ネルの手だって十分以上にしなやかで細くて白くて、無骨な彼のそれとは根本的ななにかがまったく違う。
外し終わった包帯を脇にどけ、いつの間に用意したのか濡らした布で傷口あたりを拭われれば、焼け爛れた肌の上にまだじくじくと血のにじむ傷口が確かにあった。さぎざきに引っ掻かかれたような傷口に、ネルの眉がきゅっと寄る。
「……何でこんな怪我しといて何も言わないんだい」
「俺の勝手だろうが」
「そうは言うけどね。出血は大したことなくても、かなりひどい傷じゃないか。ほっといて化膿させでもしたら、左腕動かせなくなるかもしれないんだよ?」
――あんたの理論で言えば、それは「弱くなる」ってことだろう?
まっすぐに彼を見つめる瞳。元敵国の彼を、当初は確かに憎んでいただけの彼を、素直に心配する鮮やかな紫。言いながらも彼女の手は動き、腕にこびり付いた、酸化して黒く固まった血を優しく拭い取っていく。
目をそらしたのは、バツが悪くなったアルベルだった。
「……気付かなかったんだよ」
「え?」
しみるよ、とつぶやいて傷口に軟膏を擦り込んでいたネルが、呆けた顔で彼を見上げる。その視線を感じながら明後日の方向を見たまま、アルベルは息を吐いた。
「気付かなかったんだ。他ならともかく、こっちの腕だったからな」
「……?」
きょとんと目を瞬きながら、それでもネルの手は止まらない。器用なことだとアルベルは口の端を持ち上げる――それはあるいは自嘲の笑みかもしれなかった。
「この火傷負ったときに神経もだいぶやられた。慣れたはずの今でも、本当に思うようには動かせねえし感覚も鈍い。痛覚なんて特にな。……だから気付かなかったんだ」
しみると宣言された軟膏も別にどうとも感じない。ぼんやりと冷たいそれが、擦り込まれていくにつれてぼんやりと熱を帯びる、ただそれだけ。彼の腕を支えるネルの手の感触も遠いし、握りこぶしを作ろうとしてもその指はひどく緩慢に空を掻くだけだ。
過去の愚かさを証明する、傲慢を戒める左腕。何を生み出すこともできない、破壊しかできない、破壊すら鉄爪を外せばひどく難しくなる――荷物でしかない醜いモノ。
「いっそあの時、斬り落としときゃ良かったのかもな。親父の手向けにすらなったもんじゃねえが、そうしときゃよっぽどマシだったのかもしれねえ」
自分でこの左腕を斬り落とすことは、今でも恐怖にはならない。ただそれは己の弱さから逃げることになるから、臆病者に成り下がることだから、他の何にも増してそれが許せないからしないだけで――心底憎み疎んでいるのは事実だから、別に今この腕が腐り落ちてもかまわないとすら思う。
