淡々とつぶやくアルベルが、不意に右手を上げた。ぱしっと小気味のいい音がして、次の瞬間にはネルの細い手首を掴んでいる。――平手を飛ばしてきた、その手首を掴んでいる。

―― An eine alte Wunde ruhren 2

「何の真似だ」
「――甘えたこと言ってんじゃないよ」
ネルは低くうめくと、掴まれていない逆の手でアルベルの胸倉を掴み上げた。彼女がベッドに立ち膝を付いたはずみで、軟膏の容器が小さな音を立てて床に転がり落ちる。
「甘えたこと抜かすのは、あんたがその左腕で奪った生命全部返してからにしな。できないならそんなこと言うんじゃない」
不機嫌そうに目を細めたアルベルが、彼女の手首を掴んだままの右手に力を入れる。
ぎしり。いっそ握りつぶされるのではないかというほどの痛みを、しかしネルは表に出さない。怒り、憤りに底光りする目がアルベルを射抜いている。
「あんたは、紛れもなくシーハーツの民の敵だ。先陣きってあたしの部下や兵たちを殺した。戦場で死を振り撒いた。誰よりも返り血を浴びて、それを誇らしそうに嘲笑っていた。
――そのあんたを、何であたしが生かしていると思う?」
「……何が言いたい」
紅と紫、一歩も引かない強い瞳がにらみ合う。
「あたしもアーリグリフの民を殺したから? ――違うね。
戦争が終わって、陛下があんたたちを許せとおっしゃったから? ――そうじゃない」
いっそキスでもしようかという至近距離。恋人同士の甘い雰囲気のかわりに、触れただけですべてを斬り裂きそうな緊張の糸が張り巡らされている。
「あたしがあんたを殺さないのは、仲間と認めているのは。強者が勝者だと、弱肉強食だと断言する、馬鹿みたいに単純なあんたの理屈もアリだと、あたしが判断したからだ。その理屈に従っているあんたを悪だと決め付けることが、あたしにはできないからだよ」
怒りの色を浮かべたまま壮絶な笑みを浮かべるネル。凄惨なその微笑がこの上なく妖艶なものに映って、見知ったはずの女がまるで知らない女のように見えて、ごくり、知らずアルベルの喉が鳴る。
「覚えときな。あんたは迷っちゃいけない――少なくとも、あたしにだけはそれを見せちゃいけない。迷いを見せたら、今度さっきみたいな甘いことを抜かしたら……本気でその喉笛、掻っ斬ってやる」
「……てめえに俺が殺せるとでも言うつもりか」
「殺すさ。たとえ普段のあんたには勝てないとしても、迷っている時なら話は別、片手で釣りが来るね」
彼女は胸倉を掴み上げていた手を唐突に離した。そのしなやかな手が柔らかく彼の胸を這い、そのまま喉元に移動する。愛撫にも似た動きで、力さえ込めたなら気道をふさぐ場所に触れる。睦言でもささやくように、甘く甘く凄惨な台詞を吐き出す。
「あんたがその左腕を嫌おうと憎もうと、あたしには関係ない。けどね、その腕があるから今のあんたがいるんだ。それだけは否定させない――その腕で生命を奪ったことを、その人たちのことを忘れたら、あたしは何に代えてもあんたを殺すよ」
すっと目を細めたアルベルが、しかし今度はやけに機嫌良く彼女の手首を自由にした。
一度離してから今度は壊れものでも扱うような手つきで捕まえ直して、くっきりと赤く残った手の痕を、無骨な指の腹でくすぐるように撫でる。そのまま喉の奥で低く笑う。
「やれるもんならやってみろ。手加減なんかできねえからな、返り討ちに遭うのがオチだ」
「そんなもの、そのときになってみなきゃ分からないだろう?」
笑う彼に目を細めて、ネルも物騒な、しかしどこまでも艶麗な笑みを浮かべる。

力の入っていない拘束からさっと手を引いて近すぎる距離からすっと身を離して、彼女は床に転がっていた軟膏を拾い上げた。少し放っておいただけでやはりにじみ続けていた彼の腕の血を再び丁寧に拭き取って、てきぱきと手当てを続ける。
まるで何事もなかったかのように。
薬が塗られガーゼが当てられ、新しい包帯に見えなくなる火傷の痕を何とはなしに見ながら、アルベルはぼんやりと瞬いた。

◇◆◇◆◇◆

――過去の愚かさは、一生消えない傷となって彼の身に刻まれた。
その事実は覆しようもないし、隠す気にもなれない。ぎごちないその腕を鉄の爪に替えて、武器に変えて多くの生命を奪ってきた。それも事実だし、戦場で立てた功を否定する気もやや不本意な二つ名を返上する気もない。
忌まわしくおぞましいのは。腕そのものではなく、それが示す過去の自分。
しかし、どれほど嫌っていても憎んでいてもそれを否定することはできないし、なかったことにするのは彼の矜持が許さない。過去の自分も現在の自分も、嫌い憎みこそすれ否定しようとは最初から思わない。
……だったら、

「――てめえに俺は殺せねえよ」
「しつこいね」
巻き終わった包帯の端を結んでいたネルが呆れたように目を上げて、しかしその紫をまっすぐに見つめてアルベルは不敵に笑った。
「俺は強いからな」
何かを言いかけたネルの口が、しかし何も言わないままに閉じられる。先ほどの酷薄な微笑とは違う、柔らかな笑みがふっとその顔に浮かぶ。
彼が言いたかったことを正確に汲み取ったのだろう。汲み取って、くれたのだろう。
「……そういう大口叩いてこそ「歪のアルベル」だね。ま、せいぜいがんばりな。
さて――治療はすんだよ。包帯きつくないかい?」
「ああ。……ご苦労」
「その言葉、いつ聞いても腹が立つね……あたしはあんたの部下じゃないんだよ」
「だったらほっときゃ良いだろうが」
「フェイトがうるさかったんだ、仕方ないじゃないか」
道具を元どおりに袋にしまい込み、血の付いた包帯とついでとばかりに彼の長手袋も拾い上げて、
「あたしも気になってしょうがなかったし。……まさか自覚がないとは思わなかったけど」
「うるせえ」
「文句があるなら怪我した時にとっとと治すか、誰にも気付かれないように隠しとおしな。自覚がないなんていいわけだよ。
……これ、洗濯出しとくから。じゃあ、邪魔したね」

◇◆◇◆◇◆

鮮やかに身を翻すネル、首元を覆う布がふわりと流れて、なんとなくアルベルはその端を掴み止めた。
「なんだい?」
「……ヒーリング」
彼の手に光が凝る。振り向いたまま首をかしげる彼女に何だか馬鹿らしくなって、アルベルは手を離すとまたベッドに沈み込んだ。
「とっとと出てけ、阿呆。……俺は寝る」
「出てくのを止めたのはあんただろ……って、ああ」
やっと気付いたのか、少しだけ間を置いて、
「……礼は言っておくよ、ありがとう」
「何のことだかな」
わざとらしくとぼけて、彼女に背を向けるアルベルにくすくすと笑う声。
「夕飯までそんなに時間があるわけじゃないからね。寝過ごしても知らないよ」
ぱたん。扉を閉じたネルの手首に、痣が残っていないことを横目に確認して。アルベルは改めて目を閉じると頬をゆるめる。

――取り替えたばかりの包帯の感触が、ほとんど感じられないはずの清潔なそれが、今はやけに心地良かった。

―― End ――
2004/04/02執筆 2004/07/09UP
アルベル×ネル
OFP
中国語・無断転載禁止 ハングル・無断転載禁止
An eine alte Wunde ruhren 1 2
[最終修正 - 2024/06/21-11:14]