アーリグリフ。年の大半を雪と氷に閉ざされた、軍事国家アーリグリフの首都。
その日。
街の中を、赤毛の女性がしなやかな身のこなしで駆けていた。
「……まったく」
ネルは大きく息を吐いた。
雪のないシーハーツ出身の人間ながら、脚を取られることなく一面の白の上を軽やかに駆けていく。時おり目を鋭くすると音を気配を拾って、街の地理と照らし合わせてより静かな方へと移動する。ついでに言えば、足跡に気を配る余裕もある。
「あたしとしたことが失敗したね」
ぼやきながら少しだけ脚をゆるめて、とたんに聞こえた、いたぞだのこっちだだのといった声にげんなりと顔をしかめた。
追われている。
戦争が終わったとはいえ、元敵地の中心部を軽々しくうろつくにはまだ早すぎる、とネルが心底思い知ったのは。この街に来て時間と集合場所を決めてパーティを解散して、そういえば心許なくなっていた私物の買い出しをしようかと、彼女が表通りから外れた路地へと入り込んで。たまたま通りすがりに、おそらく傭兵くずれだろう鎧姿の兵士ではない数人の男たちとすれ違って。そのうちのひとりが――あるいは全員が、あ、と声を上げた瞬間だった。
ぞわりと鳥肌が立った。買い出しは瞬時に諦めて、不自然ではない程度に早足で男たちから離れようとした。表通りに戻ろうとした。
けれど。
「シーハーツの……!」
その声でネルに視線が、治安のよろしくない下町の荒くれどもの視線が彼女に集中して。ひとりでも身を翻せば、その他大勢もつられたように脚を踏み出して。平穏な解決策はもう選びようがないのだと悟って、早足から駆け足に切り替えざるをえなくて。
ネルが逃げたことで、男どものテンションがどうやら上がってしまったらしくて。
「さて、どうしようか」
駆けながら、ネルは息を吐く。とにかく表通りに出たいけれど、向こうもそれは分かっているらしく裏通りから出る道にはガラの悪い男たちがいちいちぶらついている。時おりバックステップで雪に残る足跡をごまかしたりして、簡単なフェイントをかけてみるものの、向こうの数が多すぎてなかなか全員騙されてはくれない。待ち受ける者とは別にうろつく者がいて、下手に立ち止まっていると簡単に見つかってしまう。
というか、いちいち声を上げてくれるおかげでぞろぞろ集まってくる。
「手柄の独り占めを狙うやつばっかりなら簡単なのに」
仲間に裏をかかれることを恐れて、各個人でどうにかしようとしていれば楽なのに。
それとも事前に手が回っていたのだろうか。いつ訪れるかも分からない敵国の女将校ひとりを追い詰めるために。
「……んなわけないね」
駆けながら腰の後ろに手をやれば、なじんだ短剣の柄がある。確認だけをしてそれを手にすることなく、ネルは適当な角を曲がる。
相手は街のちんぴら程度。一対一なら、たとえ目を閉じていてもネルの圧勝だ。数人でかかってきてもあしらう自信はある。数に任せてたたみかけるように襲って来たらさすがに面倒ではあるものの、この区画にいる彼女を追うちんぴらどもを全員相手にしても、面倒なだけで決して負けることはない。
慢心ではなくそれは事実で、しかし実力行使をするには彼女の中の隠密の性質が反発していた。騒ぎを起こすことはどうしても避けたかった。彼女の中の国の重鎮、クリムゾンブレイドという立場が。自分が騒ぎを起こすことで、せっかく落ち着きかけていた両国間の友好的な雰囲気をぶち壊すことを恐れた。我が身を犠牲にしてでも、それだけは避けろと叫んでいた。
だから。
「時間がくるまで追いかけっこか……」
別に、それで体力が尽きるわけではないし。
心底面倒臭いだけだと自分を説得してさらに息を吐いたとき、ふと見覚えのある姿が視界の端をよぎった。
「――……うん」
瞬間ネルの頭に計画が浮かんで、ひとつうなずくと人影に向かって進路を修正する。
その日。アルベルは裏路地をぶらついていた。
することがなかったというか、ぼんやり歩いていたらいつの間にかこんなところにいた、といった方が正しいかもしれない。年中寒い街で、今もこうして雪が降り続いているわ凍える風が吹きつけてくるわで寒いのは腹が立ったけれど、今さら回れ右をするのは何となく嫌だった。というかプライドが嫌がった。
ので。
特に目的もなく、意味もなくうろつくままにする。こうしていればひょっとしたらちんぴらなどが絡んでくるかもしれないし、そうすれば時間つぶしくらいにはなるかもしれない。――まあ、この街で彼を知らない人間が、特に裏社会の人間がいるはずはないけれど。でも、ひょっとしたら、万が一。
それに。
少し落ち着いて考えた方が良いかもしれないような気がすることも、ないわけではないし。
そして。
「…………ん……?」
ふと周囲がざわめいてきたなと思ったら。先ほど別れたばかりのパーティメンバー、赤毛の女が、なんだか彼目指して一直線に走ってきた。
「……??」
アルベルは、眉を寄せる。
「ちょっと手を貸してくれ」
「あ?」
どうやら全力で走ってきたらしい赤毛の女が、言うなり彼の手を引いた。走ってきた勢いのまま彼を引っ張って、手近な路地に引きずり込む。抵抗しようと思えばできたものの、何となく付き合ってやった。ら。
狭くて暗くて汚いことこの上ない細い路地の行き止まりの壁の前で、女は掴まえたままだった彼の手をぐいと引っ張った。女とは思えない力、とはいえアルベルにとっては大したことはない力。多少バランスを崩して、彼は壁に左手を付く。
「勘違いしないうちに断っておくけど、変なことしたら――殺すよ」
壁と彼の間に、女の身体。
「??」
彼の首元に回る、女の腕。
――それは、襲えと誘っているのか?
先ほど言われたから、ではなく。まるでわけが分からずに困惑するアルベルを、首に回った腕がぐいと引き寄せた。どこか誘うような色を帯びながら、その腕の動きはあくまで機械的で。硬く引き結ばれた唇は、触れようとするすべてを拒絶している。鋭くにらむような目にはどんなに探しても艶はない。
そもそも、紫の目は彼を映していない。
「……?」
アルベルはわけが分からない。
「い、」
「こんなところに逃げ込んだつもりかよ」
――一体なにごとだ俺を巻き込むな阿呆。
至近距離の女の目が少しだけ動いた。訊ねる前に誰とも分からない粗野な声に遮られて、むっとしたアルベルは。それがつまり疑問の答えだったことに、数拍置いてから気が付いた。
彼は今、声に背中を向けているけれど。いかにも程度の低いその響きから、たとえ路地の突き当たりと顔を見合わせていても、わざわざ振り返らなくても。それがどういった輩なのか、考えなくても分かる。
今のこの姿勢。まるで、この突き当たりの壁に女を押し付けて、迫っているような。少なくとも路地の入口、今のアルベルを背中から見たならきっとそう映るだろう。壁に身をかがめて、白い腕が彼の首に回っている。ごくごく至近距離で、抱き合っている――とはなんだか違うけれど、少なくともそれなりに密着してはいる。
――ああ、なるほど。
「おい、にーちゃん」
無造作に向いた声に、彼の首に回った腕に緊張が走った。何気なさを装いながら、きっと見ているだけならごく自然で、しかし触れられている今は分かるぎごちなさ。落ち着け、などと言ってやる義理もないから眺めていれば、彼の身体の影にすっぽり隠れた女は、彼の背中の向こうをまるで透視するように、険しい顔でにらみ付けている。
――俺をこんなくだらねえことに巻き込むな。
無言で見下ろせば、彼の視線に気が付いたように少しだけ紫が上目遣いをした。いかにも不機嫌に細くなって、けれどアルベルを逃がすまい突き放させるまいというようにますます腕に力が入る。
「……阿呆」
ぼそりと吐き出せば、殺気すら浮かんだ目。
……大体、今の台詞が誰に向けたものか分かってねえだろう。
