事態に無理矢理巻き込んだ男は、当初かなり困惑した顔でネルを見て、やがてそれは呆れたものに変化した。そのどれにも彼女を切り捨てようという意思は見当たらなくて、しかしこの男のことだから気は抜けない。
ネルは腕に力を込める。
なかなか乱暴な方法――というか、色々な意味で危険な方法だということは分かっている。そもそも男にネルを助ける義理などない。けれど今はこいつの知名度――悪名やら風評やらを最大限利用したい。
少し身を伸ばしたなら簡単にキスできる距離で。ネルは甘い感情を何一つ持たないまま、黙ってアルベルをにらみ付ける。
「い、」
「こんなところに逃げ込んだつもりかよ」
きっと事情の説明を求めてだろう、彼の言葉を遮ったのは。どれほど好意的に解釈しようとしてもまるで無駄だろう、声だけで程度の低さを知らせるような粗野なもの。瞬間むっとしたアルベル、その背後にネルの意識が集中する。
――どうする?
細身のアルベルの影に隠れることができているのか、ネルにはよく分からない。分からないものの、昼日向の表通りならともかくここは裏路地のさらに細く奥まった場所で、つまりいつだって薄暗い。自分の身に付けている黒衣はこの周囲の暗さに溶け込むだろうし、目立つと自覚している赤毛さえ隠せているなら、
多分、声をかけてきたちんぴらにはここにいるのがネルだという確証はないはずだ。
誤魔化すことなど、それだったらいくらでもできる。
「おい、にーちゃん」
ネルの意識がそちらに集中している間に、多分大体のところを察したのだろう。アルベルの表情が、普段どおりの皮肉げで突き刺すようなつまらなそうなものに変わっていた。わざわざ口にしなくても、つまらない騒ぎに巻き込むなとその表情が雄弁に語っている。
――ああ、確かにあんたを巻き込んだのは認めるけど。かまわないだろう、暇だったんじゃないのかい?
ちんぴらに声を聞かれるわけにはいかないから、ひょっとしたら声からネルだと気付かれるかもしれないから。至近距離の端正な顔を、ただ無言でねめつける。ぴくん、にらまれたアルベルは器用に片眉を跳ね上げる。
「……阿呆」
――なんだって!?
そもそもいまだ気に食わない男に低くつぶやくように罵倒されて、ネルの不満が爆発する。
もとい。
爆発しかけた、瞬間。
「……んっ……!?」
アルベルがいっそ優雅なほどゆっくりと振り返り、自然な動きで右手を動かすとネルの口を塞いだ。いかにもくだらないと言いたげに大きくわざとらしく息を吐いて、
……ネルはアルベルが何をしようとしているのか分からなくて、下手に暴れることもできなくて。ただ全身の緊張をさらに大きくする。
「――邪魔するならたたっ斬るぞ。とっとと失せろクソ虫」
「? ……!!」
振り向いた先、見たくもない不細工な顔が激怒に引きつった。引きつった直後に、なんだか驚愕や怯えでさらに醜くひしゃげた。
「歪、の、アルベル……」
醜いものを見るのがいやでふと目線を下げれば。押さえ付けた右手の下、毛を逆立てた猫よろしく全身緊張させた女が紫の目を大きく見開いていた。
――なんて、茶番。
アルベルは再びちんぴらに顔を向けると、無表情で続ける。
「ここいら一帯から仲間連れて引き上げろ。うるせえんだよ」
「……だ、」
――自分の口走っていることに、自嘲の笑みが浮かぶ。きっとそれは、何より凶悪にちんぴらの目に映ったのだろう。何かを言いかけた口が閉じると大きく震えた脚が地を蹴って、ゆっくりと後ずさる。
「うせろ」
「っ、ひぃっ!!」
うめき声だか悲鳴だかを残して、ちんぴらが脱兎のごとく駆け出した。ほどなくして。ざわめいた周囲の気配が、思ったよりもあっさりと引いていく。移動する。
「阿呆」
完全にちんぴらどもが引いたのを気配で探ってから。アルベルは小さくいつもの台詞を吐き捨てた。じたばたともがいている、彼の右手を外そうとしている赤毛の女に。にやにやと薄く笑いながら、ゆっくりと顔を近付ける。
「――っ!」
首に回っていた手が、彼の髪を掴むとぐいと強く引っ張った。離れろ、という意思表示のそのあまりの幼稚さに、彼の笑みがいよいよ皮肉げに深くなる。
「てめえなんぞに便利に使われてやったんだ、素直に感謝――、」
元から近かった距離がさらに縮まる。暴れる身体を身体で壁に押さえ込んでいっそ焦らすようにゆっくりと覆いかぶさる。口元を押さえていた手をゆっくりと下ろして、逃げられないように細い顎を掴まえる。
怒りしか浮かんでいない紫に、生理的な反応だろうじわりと涙が浮かんでゆっくりと潤んでいって、
アルベルはひょいと首をすくめた。短刀を引き抜いて柄を叩き込もうとした腕がスカった。
「――危ねえな」
「へ、変なことしたら殺す、って言っただろうこの馬鹿! 万年欲求不満男!! 露出狂!!!!」
意識がそれた瞬間力いっぱい突き飛ばされて、動揺しきった声が罵倒する。見れば、普段のすました顔をかなぐり捨てて髪にも負けないくらい顔を真っ赤に染めた女が、肩を怒らせている。
なんだかひどく面白い。
「助けてやったんじゃねえか」
「あんたの力なんかなくても、自力でどうにかできた!!」
「最初に頼ってきたのはてめえだろうが」
「ああ、失敗だったね!! 使い勝手の悪いヤツを選んじまった!」
「ひでえ言い草だな」
「本当のことじゃないか!!」
「……冗談くらい分かれ阿呆」
「そんな冗談分かってたまるかいこの馬鹿……!!」
ひとしきり吠えて、軽やかに身を翻す。そのままだときっと振り返らない背中に、アルベルはにやにやしたまま声を投げ付けた。
「貸しといてやる」
「……っ!!」
びくん、と大きく跳ねた身体。からくり人形のようにぎごちないことこの上ない動きでゆっくりと振り返る。驚愕というか絶望というか激怒というか。単純なようでいてひどく複雑な感情が、固まったその顔に浮かぶ。
それが面白くて、アルベルはゆっくりとくり返す。
「貸し一、だよな」
うつむいたネルの顔は、周囲の暗がりに溶けてよく見えなかった。そうして常に感情を押し殺しているのだろう、爆発寸前だった感情の揺らぎがふとした瞬間に一気になくなった。
そのあまりの変化にアルベルが目を瞬くと、身体ごと振り向いたネルがゆっくりと脚を踏み出す。表情が見えない感情が分からない。ただ、低い声が聞こえた。
「あんたに貸しがあるなんて、冗談じゃない」
――考えなくてはと思っていたこと。なんだかこの女が気になっている、その理由。これからどうすればいいのか、どう扱えばいいのか。なぜそんなことまで考えているのか。
アルベルの頭の中で、何かがつぶやいている。
――これから、
ざきゅ。
雪を踏みつぶす踏み固める音。いつの間にか彼のすぐ目の前に立った女。そのひどく平静な顔に、瞬間、呑まれたアルベルがかすかに身を引いて。その首元に先ほどと同じようにネルの手が伸びる。
首元の鎖を引かれて、かすかな身長差を引き寄せられる。
「礼は言ってやる。助かった」
「…………、」
一瞬だけネルの口元に漂った、ぞくりとする艶のある笑み。
先ほどぎりぎりまで近付きながら、結局はゼロにならなかった距離を。
今度はネルの方から、
呆然としたアルベルを突き放して、ネルは今度こそ身を翻した。走りながら唇を手の甲でこすって、一度は元に戻った顔が、怒りと羞恥から今度は首筋まで耳まで真っ赤になる。そんな自分を自覚して、照れ隠しに舌うちをする。
――たかが唇一つで、チャラにできたとは。実のところ、自分でも思っていない。
だったら、――けれどそれならばなぜ、
「――……、ああもう! 何考えてるんだよあいつは!!」
いまだ抜き身だった短刀を勢いよく鞘に収めて、猫の子一匹いなくなった裏通りを全力で駆けながら。下手な女よりも整った顔立ちが、至近距離で見てしまったそれが脳裏から離れない。
「ああもう!!」
ネルは、駆けながら吠える。
「……何なんだ」
唇に残った感触、その甘さ。風のように去っていった赤毛を見送ったアルベルは、ややあってつぶやいた。無意識に唇に触れていた手が癪に障って、声にある呆然とした響きが気に食わなくて。ひとつ舌うちをする。
――そもそも、あんなことをした自分がよく分からなかった。冗談のはずだったそれを間に受けて、唇を寄せた女が信じられなかった。
大体、
……なりゆきとはいえあんな形で彼を利用する女が、利用するだけしてとっとといなくなる女が、ひどく新鮮で。
信じられなかった。
「……あほう……」
本日何回目かも分からないつぶやきを舌に乗せて、がりがりと髪に手を突っ込んで。
身体に残ったやわらかな感触が、しなやかでしたたかな赤毛の女が。上目使いでにらんできた目の強さが、子供っぽい反応が下手な娼婦よりもよほど艶のある笑みが、
「……何なんだ……」
結局どうしても現実に戻れなくて、アルベルはどこか呆然としたままつぶやく。
アーリグリフ。年の大半を雪と氷に閉ざされた、軍事国家アーリグリフの首都。
その日。
そんな、ちょっとした事件があった。
