はたいた格好のそのまま額にある男の手が、ひやりとして心地いい。
けれどこの男のたとえ部分でも、そんな風に思ってしまうなんて。
その日一行はいつもどおり旅の最中で、いつもどおり飛び出してきた敵といつもどおり戦闘になった。訂正、なろうとしていたところだった。いつもどおりの配置でいつもどおり短刀を引き抜いたネルに、
けれどいつもは無駄にいきいきうきうきしながら無謀に敵のカタマリに突っ込んでいこうとするアルベルが、いつもと違って怪訝そうな顔でそんなネルに振り返る。
「なんだいそろそろ接敵するよ!?」
「なんだは俺の台詞だ。てめえ、」
無駄話をしていられたのはそこまでで、爪を牙を刃を呪文を振りかぶる敵たちはいよいよ間近で。
けれど。
「……ちっ、」
聞こえてきたのは鋭い舌打ち、そしてそれに続いた聞き取ることのできないつぶやき。もしくはぼやき。
ネルの脳裏にちらりと疑問が走って、けれど今はそれどころではないからと気にしないことにして足を踏み出そうとして、
がつり、と。
衝撃は果たしてどこからだったのか、
分からなくて情けないほどにあっけなくたったそれだけで意識は一気に闇に染まって、そしてネルは何も分からなくなる。
――なに、も。
その日、体調を崩した自覚は実のところあった。起きた直後から悪寒に襲われていて、そもそも目を醒ましたきっかけすらつきつきとこめかみをえぐるようなこの痛みだったかもしれない。
実のところ、体調を崩したきっかけにだって心当たりはあった。ここしばらく戦いの連続の毎日で、知らない場所に前情報も何もなく放り込まれていて、そういえばこの機会にと少し前部下たちに渡されていた大量の報告書に目を通すためにここ数日間ほぼ貫徹の日が続いていて、つまりは疲労がたまっていた。あとは、アイテムや精神力を消費するくらいならと抱え込んでいた小さな怪我などがちらほらと。
無理に無理を重ねている自覚はあった、だから次に街に付いたなら休養してなるべく短期間で完治させなければと実は焦ってもいた。その街にだってその日のうちに到着する予定で、けれどだからといって気をゆるめた覚えなどない。
いくらパーティを組んでいる仲とはいえ、仲間にそうと気付かれるほど気をゆるめた覚えなど、
――そんな覚えはないけれど、どこかで気がゆるんでいてそれで体調が崩れてしまったのだろうか。体調の崩れがトドメを刺して、仲間にそうと気取られるミスをしでかしたのだろうか。
「――阿呆」
ぽかりとネルが目を開けて、まず真っ先に視界に飛び込んできたのがアルベルで、しかも顔が横向き半眼だった。半眼はいつものこととするとして、けれどわけの分からない事態に何が起きたのかまるで分からない。分からなくなる。今がいつだとかここがどこだとかというかなり根本的なことよりも、まあ、ありていにいって驚きのあまり混乱した、のかもしれない。
何かを言おうとしたはずなのに、ぱくぱくと動かした口からは何の音も出なかった。
それがネルの混乱をますます大きくして、いっそ目に涙さえ浮かぼうかと思ったときに、その視界をさえぎるようなかたちで大きなものが迫ってくる。続いてぺちりと間抜けな音と、額を軽く叩かれた感触。
「……な、」
「いいわけすんなこの阿呆」
「べっ!」
――別にいいわけなど、というか何がどうなったらそんな台詞が出てくるんだ。
思ったのに、今度は言葉にできたはずなのにネルの喉からまともな声は出ないままだった。
――はたいた格好のそのまま額にある男の手が、ひやりとして心地いい。
――だからだろうか、けれどこの男のたとえ部分でも、そんな風に思ってしまうなんて。
ぐるぐると回る思考、ぐらぐらと揺れる視界とそれをゼロにする男のてのひら。多少休んだらしいとなんとなく理解して、けれど身体は大して楽になっていない。
ネルの身体は意思に反して、ふれるアルベルの手を振り払おうとしない。
「何があったんだ」
息を吸い込んで意識して深呼吸して、そしてようやく声が出た。たぶん。……自信が無かったのは混乱が収まっていなかったからで、けれどちゃんと声になっていたことを証明するように、アルベルがそんなネルの声に面倒くさそうに返す。
「――それも覚えていないのかこの阿呆」
「やかましいね。どの時点で倒れたのかとか何が原因でだとか、そんなのはさっぱりだよ」
朝起きて、体調不良の自分に気付いて、それを押し殺していつもどおりを振舞って……仲間たちと朝食をとったのは覚えている。片付けをして、野営場所から移動をはじめたことも。
けれど基本的に道をたどるだけの移動で、どの時点で何があったか、なんて。
「歩いてる最中に、倒れたのかい?」
身体が動かない、そういえば心臓がなぜか騒いでいる。鼓動がいつしか耳にうるさくて、自分の声さえよく聞き取ることができない。一度声を出して以降特に問題はないように思えて、だから普通の声を出しているつもりだけれど。それがかなっているのか分からない。
――あるいは、弱々しい声だったらどうしよう。
――もしくは、変にふるえていたりしたなら。
「違うな」
思って、けれど聞き取りづらい周囲の音自分の声に比べて、はっきりと、やけにはっきりとアルベルの声は聞こえた。
……なぜだ。
理由が分からない、まさかこいつが何か小細工をするとも思えない。分からないことだらけで、一度はいつか収まっていた混乱が、またネルのこころにざわめきだす。
