男の手が、武器を取ることしか知らないはずの手が、なぜかこんなにもやさしい。
ネルのこころはなぜかやさしいと感じてしまう。
混乱するネルに懇切丁寧に状況の説明をしてくれるほどアルベルはやさしくはなかった。ずっと目を覆っていた彼の手にくっと力がこもったと思うと、横になっているように見えてその実少し浮き上がろうとしていた頭が、ベッドにまたぽすりと落ちる。
「何するんだいっ!」
「……不服なら、せめて振り払ってからケチつけろ阿呆」
反射的に浮かんだ文句だけは混乱を押しのけて声になって、混乱は相変わらずネルの頭に渦を巻いたままに、ああそうか今自分は寝ているのか、と。唐突に、そんなことだけがなぜか分かる。
先ほど目醒めたときにアルベルの顔が横だった理由は、自分の方が横になっているからだ。そんな自分をまるで看病するように、アルベルがどうやら枕元についている。
……できの悪い何かのペテンのようだ、この男が枕元で看病の真似事をしようだなんて。
あまりに気持ちが悪くて笑うことさえできない。きっと明日は嵐だろう。
泡のようにぽかりぽかりと思考が浮かぶ。ひとつの思考をつきつめて考えようとするのにそれができなくて、気付けば浮かんだまったく違う思考で頭がいっぱいになっている。
――ああ、あたしは本当に。
本当に、どれほど疲労がたまっていたのだろう。今もなお、どれほどの疲労が残っているのだろう。
体力的な疲労と、精神的な疲労。どちらも目に見えてはかることができないから厄介だ。今の自分を見極めることができない、自分の限界を見極めることができない。
それなのに、他者のそれはやけにくっきりとはかることができる。
この男にだって、あるいは他者の疲労が分かるのかもしれない。分かってしまったのかも、ばれてしまったのかもしれない。自分以外の誰にもかまいたくない性質の男に、そうさせてしまうほど。自分はそれほどに醜態をさらしてしまったのか。
「……戦闘は」
「阿呆、片付けなかったら何で今てめえがこうして悠長にベッドに寝てられるんだ」
混乱が、いつしか頭と心をかき乱すものからどうしようもない倦怠感に、すりかわっていた。自分が何を考えているかも分からないままにネルの口が動いてアルベルが返事をして、耳で聞いた自分の声とその応えにネルはただまたたく。
――戦闘?
――いつの? ……今日の??
――覚えていない、けれど知っているのかあたしは、それを。
――曖昧になった記憶のどこかでそれを知っていて、けれど結果は知らなくて。
――ああ、つまりあたしはその戦闘のどこかで……倒れたのか。
働こうとしない頭を懸命に動かす。ぽかりぽかりと浮かぶ思考はとりとめがなくて、それは浮遊感に似ている。風に綿毛が乗るように、水に木の葉が流れるように。自分の意思で身動きをとることができない。だからせめて、少しでも自分の意識の範囲を増やしたくて。ネルは必死に考える。
考えたい、のに。
「――寝ろ。余計なこと考えてんじゃねえよ」
男の手が、武器を取ることしか知らないはずの手が、なぜかこんなにもやさしい。言葉は乱暴なのに言っていることだって乱暴なのに、乱暴だと分かっているのに、ネルのこころはなぜかやさしいと感じてしまう。
なぜだ、他でもないこの男に。アーリグリフの狂犬、歪のアルベルなどに。
「なんで……、」
……なぜあたしは、こんなにも普段と違うあたしを呼び起こされる……?
「いやなら俺をはねのけろ、それができないならおとなしく寝ろ。無駄なこと考えてんじゃねえ」
「あたしに命令、するな。……あんただけは、あたしに命令なんか、」
「さっきから口先だけじゃねえか。自分で勝手にくたばったやつの言葉なんざ、なんで俺が聞かなきゃなんねえんだ?」
「……だったらあたしにかまわなきゃいいだろう!」
口先だけ。ああ……、そのとおりだ。
流されるばかりは、自分いまだ額にあるアルベルの手を確かにはねのけることもできない。ただ額に乗っているだけの手を、時おり押さえつけようとするときでさえ腕の重みがかかるだけなのに、それが分かるのに。指先ひとつ満足に動かすことさえもできない。身じろぎさえ、弱くであっても首を振ること、さえも。
……悔しい。ああ、涙さえ浮かんでくるほどに。
なぜ、自分はこんなにも不甲斐ないのか。
そしてなぜ、
――強さに固執するはずの男が、そういう情報を得ていて、実際しばらく一緒に行動してそれが分かっているのに、なぜそんな男が弱っている自分にかまけているのか。
なぜ、なぜ、なぜ。
……なぜ、この額の手はどいてくれない……?
「あんたなんか、きらいだ」
「だからどうした。……寝ろといってるだろうが」
意味のないやり取り、中身のない会話。いわれたからではない、男に命じられたからでは決してないけれど、ネルの頭から思考が蒸発していく。闇ではない、ぽかりとした空白に頭の中身がいれかわっていく。
あるいはそれは、睡魔がおしよせてきているのだろうか。
――ああ。抗うことが、できない。
それはまるで風に綿毛が乗るように、水に木の葉が流れるように。逆らうことのできない何かにさらわれて、ゆっくりと、ときには追いつくことのできないほどのはやさで。まるで気まぐれに、まるで決められたとおりに。
それは。
……それは。
――ここに、いて。
最後まで意地を張っていたひとかけらがはがれ落ちて、そのつぶやきを口にできたかどうか、それが声になっていたかどうか。
ネルには分からない。
自分がそんなことを思ったことも、他でもないこの男にそう願ったことも。自覚さえないままのそのこころを伝えようとした自分に、果たしてネル自身気付いたのかどうかさえ。
そして深い豊かな眠りにさらわれたネルに、ふと降ってきたのは。鋭い舌打ち、そしてそれに続いた聞き取ることのできないつぶやき。もしくはぼやき。意識の途切れた彼女を知っているのかどうか、その額から離れた手がなぞるようにゆっくりと頬を伝う。
「――阿呆」
そして降ってきたのは、そんなつぶやきだったのか、それとも他の何かだったのか。
薄くひらいたままの彼女のくちびるに、あるいはやがてふわりとおとされたものは、
