夢を、見た。
おろかしい夢を見た。
「……夢、を見たの」
穏やかに笑うフェイトの、その目元が口元がどこまでも優しくて。
気恥ずかしくなったマリアはまたそっぽを向いた。そろそろ首が痛かったけれど、まっすぐ彼を見られるはずがなかった。
気恥ずかしいのと、そしてもうひとつ、
――あまりにばかげた自分の妄想が笑われるのではと思うと、少し悔しい。自分がフェイトの立場で、仮に誰かにそう言われたなら。表情に出さないとしても、内心馬鹿にすると思うから。そう思うとなおさら悔しい。
だって。
夢は夢でしかない。それをどうこうしようとしたところで、現実が変わるはずもない。誰にもどうすることもできない。ただ、自分の精神状態を推し量る、その材料でしかない。
それなのに、そんな夢の内容を誰かに話すのは。何だか恥ずかしくてどこか悔しい。
現実には関係ない夢想を吐き出すのは、――どこか怖い。
けれど、少し間を取ってみてもフェイトの表情が態度がまるで変わらないから。諦めてくれるとは、到底思えないから。
一度うなずいてしまっただけマリアに分が悪くて、彼女はしぶしぶ折れることにする。
「前後の脈絡は覚えていないけど……キミがいてクリフがいて、ソフィアがいて……今の、このパーティで、あれは……シランド城だったかしら。何か作戦会議をしていて、」
「うん」
やわらかな雰囲気のフェイトが、どこか嬉しくてやっぱり居たたまれない。
「何かを話していて、ちょっとむせそうになって――私が、」
フェイトとつないでいるのとは逆の手を、あの夢のあの時のように口元に当てて、
「軽く咳をするつもりだったはずなの。……痛みも気分の悪さもなかったわ。それなのに、なぜか――」
「なぜか……?」
「――なぜか私は、血を、吐いていて。むせたわけでもなくて、ただ口からあふれて止まらなくて、相変わらず痛みも何もなくて、でも血の味もにおいもしていて、
――そのうちに、意識が薄れていって、……ああ、死ぬのかなって、思ったの」
きゅっと、握られたままの手に力が入って少し驚く。フェイトを見れば、なんとも言えない微妙な、しかし心配そうな顔でマリアを見ている。
――夢の中と、まったく同じ顔。
マリアは小さく微笑んでみる。
「……なんて顔するのよ。夢よ? そんな夢を見たってだけ」
「でも、」
「何か病気にかかっているわけでも、怪我を隠しているわけでもないわ。ただ、そういう夢を見て、目が醒めて、……どうしてそんな夢を見たんだろうって、思って」
いつの間にかゆるく握って胸元に当てていた手を、先ほどまでは口元に当てていたはずの手を、フェイトの頬に伸ばす。手首を彼の耳に押し付ける。きょとんとした顔のフェイトに、もう一度笑う。
「……脈、聞こえない? 私は生きているわ。大丈夫、私は生きてる」
「……うん」
しばらく目を閉じて耳に集中していたフェイトが、やがて小さくうなずいた。マリアは口元に笑みを浮かべたまま、静かに続ける。
「死ぬかもしれないって思った時、そもそも痛くも苦しくもなかったせいかもしれないけど、怖くはなかったの。仕方がないわね、ってどこか納得してたわ」
「――マリアがいなくなったら……困るよ」
――仮定でも、そんなこと考えたくないけど。
まっすぐにマリアを見る碧い瞳。穏やかな、けれど怒りを含んだ深い色。
マリアは、困ったように微笑んでみせる。
――そう、マリアが今死んだら、フェイトたちが困る。この世界が確実に消滅してしまう。「あいつら」に対抗する術、その要の一つがなくなったなら、もうどうすることもできない。ただ滅びの瞬間を、きっと遠くはないそれをただじっと待つしかできなくなる。
だから。
マリアは、うなずいた。
「ええ、分かってる。だから、死ぬと思ったこと自体は怖くなかったけど、悔しかったわ。
死を受け入れながら、何とかならないかって必死に考えてた。ネルに氷の術をかけてもらって全身氷付けになって仮死状態になったらどうかとか、ソフィアの施術の中に打開できるものがないかとか。私のこの能力で、「私」を「別の存在」に改変させられないかとか、誰かに能力だけでも受け渡せないかとか、……うん、色々考えた。
あきらめながら、あきらめきれなかった。せめて今は生き抜かないと、この能力だけでも残さないと、って。
――笑うしかないわ。あれほど忌み嫌っていた能力だけが、今の私の存在理由なんだもの」
「そうじゃないよ、マリア」
「え……?」
まじめであきれたような、硬くて苦笑したようなフェイトの声。ぐらりとかしいだ視界。
――フェイトに抱きしめられて、瞬いている自分。
呆然と瞬く頭は事態をまるで理解しないのに、身体が一気に熱くなる。顔が熱くて火を噴きそうだ。その熱に焼かれて、呆然とした頭はいつの間にかぐらぐらと沸騰する。心臓がどくどくといきなり張り切って働きだして、顔に頭にあたためられた血が全身をものすごい速さで駆け巡る。
目眩が、する。
勢い抱きしめた身体は、見た目から想像していたよりもずっとずっと華奢だった。
それこそ力加減を間違えたら砕けて儚く消えてしまいそうなほどで、フェイトはそれでもこわごわ腕に力を込める。呆然としているせいだろう。抱きしめた身体はぴんと硬直して、身じろぎすらない。
硬直しきった彼女にはフェアではないかもしれない。でも、
「……世界も、能力も関係なくて。他のやつらだってどうでもいいんだ。
ただ――僕が。マリアがいなくなったら、僕が哀しい。僕が困る」
身体は硬直しているのに、混乱はまだ収まっていないのに。それなのにここだけ反応が素早い、真っ赤になった耳に口を寄せてささやいた。声の吐息にぴくりと華奢な身体が跳ねて、それで我に返ったのかあわてて暴れ出す。
逃がさない。
きっと、今の声は届いていないから。言い直す。
短く、この気持ちを一言で。多分まだ混乱しているマリアに、今度はしっかり届くように。
「マリアのいない世界なんか、僕はいらない」
「……っ、ふぇ、いと……?」
何とか顔を上げたマリアの頬が上気している。それがひどく愛らしくて、フェイトはさらにマリアをきつく抱きしめた。
――ああ、口元がなんだかにやけている。
「僕にできることなら何だってするよ。マリアが生きて、笑ってくれるこの世界を守るためなら、なんだってできる。
でも、マリアのいない世界ならいらない。そんなもの僕の手で壊してやる」
戸惑ったままのマリアが、一つ息を吸うとふっと口元をほころばせた。顔は上気したままで、ただいつもの気の強い理知的な笑みが浮かぶ。
その笑みが鋭く彼を射抜く。
「世界を盾に、私を脅迫する気?」
「そうだね。……そうなるかな」
細く脆く華奢な、けれど誰よりも強い彼女が。その笑顔のためにこの世界はあるから。
彼の世界はそのためだけに存在するから。
「――そう。……だったら、キミより早く死ぬわけにいかないわね」
先ほどはあれだけうろたえていたのに、そうつぶやいたマリアはフェイトに体重を預けた。驚く彼に、深い翠の目が、夏の力強い翠がやわらかく細くなる。
「……今度は、変な夢見ずにすみそうだわ」
「え、マリア?」
「適当に転がしておいてくれていいから」
――最近あまり眠れなかった分、どうしてかしら、今はすごく眠いの。
小さなささやきが寝息と重なって、華奢な身体からくったりと力が抜ける。
「あはは……」
――男扱いされていないのか。
――一世一代の告白のつもりだったのに。
平気な顔をして、けれど内心どうしようもなくパニックに陥っていた心底まじめな告白は。どうやら当の本人には届かなかったらしい。
フェイトはがっくりと肩を落とした。
――恋愛ごとには今まで縁がなかった分、きっととてつもなく鈍い彼女がそれでも愛しい。
――それとも、これも頭の回る彼女の策略なのかもしれない。
そうだったら嬉しい。うん、そういうことにしておこう。
大きく息を吐くと気を取り直して、軽すぎるその身体を横抱きに抱え上げた。気付いたクリフが微妙な顔をするのを、意識して見ないふりをする。
――君がいるから、世界には価値がある。
おだやかな眠りの中、青い髪の眠り姫が幸せそうにふわりと微笑んだ。
それだけで、彼のすべては報われる。
