「……今日はここらで野宿だな」
「まだ、陽は高いですよ?」
ルーファスが立ち止まってぽつりとつぶやいて、つられて足を止めたアリーシャは、口の中でつぶやかれた彼の言葉をなんとか聞き取ると――こくりと首をかしげた。
ゾルデを出たのが昼時、近くはないけれど遠くもない喪失の森にたどり着いてまだそれほどの時間も経過していない。旅慣れていないアリーシャでさえ、まだまだ足取りは軽い。シルメリアに言われて同行してもらっているルーファスは、そんな彼女よりも体力もあるだろうし何より旅慣れているだろう。
気は進まないけれど、先を急いだ方がいいのは分かっている。
そんなアリーシャの事情を、ルーファスは知っているはずだ。……それなのに?
彼と、自分と。きょときょとと目線を動かして足元を見るアリーシャの顔を、まじまじ見つめたルーファスが瞬いて、少しの間だけ上の方を見て、やがてやれやれと大きく肩をすくめた。
明らかに呆れている、もしくは……?
よく分からないけれど、あまりいい意味ではないだろうということは分かった。よく分からないけれど、何か間違えたことを言ってしまった、またはしてしまったのだと思った。
分かって思って、アリーシャの眉がきゅっと寄ってくちびるがきゅっとかみしめられて、つい先ほどまで無防備にきょとんとしていた整った顔立ちが、あっという間にしょんぼりしたものになる。
うつむいてしまった彼女は見えなかったけれど、その表情の変化を間近で見たルーファスの顔まで、まるでつられたようにあわてふためいたものになっていく。
「……あー……、」
がさがさもふもふと音がするのは、ルーファスが落ち着きなくその場で足踏みしているからだろうか。そこかしこの地面にたっぷりの枯葉が降り積もった喪失の森では、よほどの訓練をつんでいても足音をまったく立てずに移動するのはかなりむずかしい。それが、動揺して無意味にわたわたしていてはなおさらだろう。
そこまでは分からなかったけれど、下を向いた視界にちらちら入るルーファスの足があきらかにばたついていて、なんだろうと思ったアリーシャは恐るおそる顔を上げた。そこには長い髪に右手をつっこんで、あー、だとか、うー、だとかうめいている困りきった顔があって、そのままびくびくしながら彼を見上げていると、何のきっかけだったのかそんな彼女に気が付いたようで、彼の表情がふと凍りつく。
あ、のかたちに間抜けに開いた口はすぐに閉じられて、ぷい、なんだかそっぽを向かれてしまって。びくびくしていたアリーシャにとってみればそれはそれで拒絶のように見えたはずなのに、彼女の胸の奥に、なんだかほつりと小さなさざなみが立った。
それは、笑いになる前の小さな小さな種みたいなもので。
けれど笑いになる前だったのでアリーシャ本人は気付かずに、もちろんそんな彼女から顔をそむけているルーファスも気付くはずがない。
それまでなんだか騒がしかったのに、急に二人とも黙ってしまって動きまでも凍りついたようだった。遠くに風の音、かすかに揺れる葉ずれの音、自然のざわめき以外の音がふつりと不自然に途絶えてしまった。
痛いほどの沈黙が、降り積もった枯葉にも負けないほどどんどん積み上がっていく。
何か、何かを言わなければと、変にアリーシャの気持ちが焦る。きっとその焦りはルーファスも同じだったようで、声のないままにその口がぱくぱく動く。いつの間にかまた顔が正面を向いていたルーファスが耐えかねたように沈黙を破ったのは、アリーシャが声を出すためにとりあえず息を吸い込んだ、そんなときだった。
「……まだ陽が高い、まだ疲れていないとでも、言いたいんだろ?」
「は、はい!? ……あ、はい。そうです……」
話が分からなくて一瞬戸惑って、それが、そもそもこんなところに立ち止まった理由だったことを思い出す。明らかに変だったアリーシャの反応を、けれど突っ込んだりしないで、彼もまた言葉を探しながらのようにゆっくりと続けていく。
「このまま歩いていったら、夜になるだろ」
「ええ……そうですね」
「もしくは、夜になる前に疲れ果てたとするだろ」
「そう……かもしれません」
「そうしたら、どうするんだ」
「……え?」
「ここは街中じゃないし、誰かいるわけでもないし。いや、獣とかもっとタチ悪いのはいるかもな。で、へとへとにバテたとこにそういうのが襲ってきたらどうするんだ」
問われて、アリーシャは考えてみる。考えてみたけれど、そこまでへとへとに疲れきったことが、周囲に誰一人いない状況が、そもそも今までの自分にない事実に気がついて、いまいち想像が追いつかない。
何でも知っているはずの彼女の内のシルメリアは、今の会話だってすべて見聞きしているはずのシルメリアは、なんだか追い詰められた気持ちでアリーシャが助けを求めるのに、けれど何も言ってくれない。
「……そうなったらどうするんだ?」
重ねて問われて、その声が――口調はともかくなんだかやさしいものに聞こえて、答えがないままにアリーシャは声の元に目を向けた。顔を上げた。思ったよりも近い場所にルーファスの深い色の瞳があって、とくりと何かが騒ぎ出すような感覚に襲われる。
腰に手を当てた彼がのぞき込むようにアリーシャを見ていて、まとまっていない考えはなんだかますますまとまらない。
「こ……困ります」
この状況は、とても困る。
ちんぷんかんぷんの回答は、けれどこの際間違いではなかったらしい。のぞきこむ顔が上下にぶれて、瞬きひとつをおいて、彼がうなずいたのだとようやく分かった。
「困るだろ? 下手したら剣もぶん回せないかもしれないし、そうなったらみすみす殺されるだけだ。
――だから、余力があるうちに寝るとこ確保するんだよ。夜は目も利かなくなるしな。
納得したか?」
「はいっ、」
反射的にうなずいてから、なんだか白に染まっていた頭に彼の言葉がようやくにじんでしみこんで、さらにもう一度頭の中で反芻して、それでようやくそれはアリーシャの中に落ち着いた。
「――はい」
だからもう一度、今度はしっかりとうなずいたなら、そんな彼女にルーファスの目が笑う。
それが、まるで幼い少年の自慢するような満足そうな笑みに見えて。なぜ彼の目だけの笑みがそう見えたのかは分からなかったけれど、先ほどとくりと騒ぎ出した何かが、今度はじんわりしたぬくもりになってアリーシャの心を満たす。
何もかも分からなかったけれど、そのぬくもりが「嬉しい」ということだけは分かった。ぶっきらぼうでむすっとしているルーファスしか知らなかったけれど、それは気のせいで、本当は彼はとてもやさしいということになんだか不意に気が付いた。
「ほら、オレが寝るとこ探してくるから。あんたは燃えそうな木切れ、ほらこんなの、探して集めといてくれ」
「はい!」
渡された木の枝を抱えて勢い込んでうなずいたなら、そんなアリーシャの顔をまじまじ見つめたルーファスが瞬いて、少しの間だけ上の方を見て、やがてやれやれと大きく肩をすくめた。
そのままがさがさと大またに歩き去っていく彼の頬が、長い髪の向こうになんだか染まっているように見えて。
意味が分からなかったけれど、くすぐったい気持ちになったアリーシャは小さく笑う。
胸の奥のぬくもりは、気のせいではなくたしかにそこにあって。
――すぐに冷めてしまうほど、やわなものではない、らしい。
