見上げたなら、木々の間に細い細い月が見えて。
彼は軽く、息を吐き出した。
ぱちぱちと音を立てて燃える焚き火が二人の間にあった。適当な倒木に腰を下ろしたルーファスの目の前、赤い炎の向こうには、いかにも四苦八苦悪戦苦闘している少女がいた。――彼女が腰を下ろすのはルーファスと同じ適当な倒木で、違うことといったなら座る際に懐から取り出したやわいハンカチを倒木の上に広げたことくらいだろうか。
そんな些細なことでさえ、育ちのよさを感じさせるのは十分なほどで。
だから今少女が四苦八苦している、スープの具材を切り分けるただのそんな作業にも。そんなことに心底真剣に、そして苦戦していることにさえ、その育ちのよさが関係しているのだろう。
――変な女、
というのがルーファスの、アリーシャに対する現在の評価だった。
そんなことを思われているとはツユとも知らないのだろう少女は、にんじん一本の皮むきに取りかかってどのくらいの時間が経ったものか、相変わらずむき終わらないそれを手の中に、やはり悪戦苦闘している。
――やっぱり、変な女。
旅をはじめてそれなりに経過している彼の見立てが正しいなら、たぶん十代なかば……よりも少し上、けれどやはり十代といったところだろう。見た瞬間に愛らしい顔だちにまず目がいって、深い蒼い目、さらさらと長い金のまっすぐな髪、華奢な身体つきに腰に佩いた細い長剣……と順番に目が移って、おどおどとした態度と物言いに少し苛立って、
そして、――
ゾルデでの出会いをふと思い出しているうちに、渋い気持ちがよみがえってルーファスの口元が歪んだ。への字に曲げたのか苦笑したのか自分でも分からなかったそれは、やはりがたがたになったにんじんを抱えている彼女には見られていなかったようだ。たぶんそれを見たならびくついて何か声を上げていただろう彼女は、今もやはりにんじんに取り組んでいる。ぷるぷるふるえるナイフの刃先がいつ彼女自身を傷つけるものだか、見ていて気が気でないのも変わらない。
――こうして見る分には、普通の、育ちのよさそうなただの女なのに。
――でも、ときどき見せるあの顔は……、
あの冷徹な、刃向かう者を冷酷に斬って捨てると予感させるような、あの目つきは。鋭く容赦のないあの物言いは。
あのとき、今まで二回ほど見たあの女は、今目の前にいる少女とは重ならない。
どうしても重ならない。だから、
――変な、女。
他に相応しいいい方が浮かばない。だから今のルーファスの、アリーシャに対する現在の評価はそうなる。
その変な女は、やはりどうしても相変わらず、最初の、たった一本のにんじん相手に苦戦真っ只中のままで。
見上げたなら、木々の間に細い細い月が見えて。
彼は軽く、息を吐き出した。
「……いつになったら終わりそうだ?」
「っ、はい、あの、」
見ていて、こういうこと――料理もどきに慣れていないのは分かった。演技ではなく本当に慣れていなくて、ひょっとしたら文字通りのはじめてで、つまりは日常生活のそんなことに慣れることのないいい暮らしをしてきたのは、心底よく分かった。
死んだはずのアリーシャ王女だと名乗った、それを嘘とするにしても。実際、王族やら貴族やら、そういった人種の人間なのだろうということは。言葉を尽くされるよりも、今までの彼女の行動を見ていたなら、このナイフさばきを見たのなら、逆に、信じない方がむずかしい。
――こんなやつを疑っていたのか、オレは。
とげとげと周囲を威嚇しているだけの余裕のない自分を突きつけられたようで、それが苦くて口元をひん曲げたなら、おどおどと彼の顔を見上げていた少女がびくりとふるえ上がる。
やはり先ほどの、回想につられて渋くなった顔のルーファスには気付かなかったらしい。気付いていながら気付かないふりをする真似は、おそらくこの少女にはできない。
「……終わらない、かもしれません……。こんなにむずかしいなんて」
その腹芸のできそうにない少女がしゅんとうなだれて、渋い顔はどうやら誤解されたようで、少し思考を飛ばしていたルーファスはかなり居心地の悪い気分に陥って、けれど、
「……まあ、上出来、か。これでできるとか言い張ったなら、手のつけようがねえよな」
口の中で自分にいい聞かせるようにつぶやいたそれは、少女には聞こえなかったらしい。おどおどと――あの冷酷な女ではない、目の前の少女が目だけでそんな彼をうかがっている。
「貸せよ、オレの方が慣れてるから」
「あの、でも……わたしがやりますって言ったのに、」
「できないかもしれないんだろ? オレは腹が減ったんだ」
あんたはどうだ、と続ける前に、くぅ、と少女の腹が鳴った。とたんに真っ赤になってうつむく姿はやはりあの冷酷な女とはまったくの別人で。それなのにあの顔を見ていたから、どうしても変な女、と何度目かも分からないけれどルーファスは思って。
くくっと喉の奥で笑ったなら、おどおどと持ち上がりそうになっていた顔がまたうつむいた。少しいじめすぎたのかもしれない、とよく分からない罪悪感が押し寄せる。
居心地の悪いそれから逃げたい一心で、
「――あのなあ」
だから口をついて出た、考える前に出ていた言葉を続けることにして、
「ディパンまでの案内のかわりに、その間の護衛するってことで、あんたはオレを雇ったんだろ? さすがに料理なんてのは護衛の仕事の範疇外だけどよ、雇い主がいちいちおろおろこっちの顔色うかがってるなよ」
「……はい」
こちらが何を思おうが雇い主だということでことごとく威張り散らされたなら、もちろんそちらの方が腹が立ったに違いないけれど。いちいちおろおろされるのも、あまり気持ちが良くない。
「こんなモンは慣れでしかねえよ。で、あんたは慣れてなくて、オレの方が多少は慣れてる。悠長に待ってられるほど、オレは気が長くないし、あんたの腹の虫も抗議してる」
「は……い」
怒るかな、と思った言葉にも、うなずいてさらに小さくなる少女。一体何があれば、こんなに気の小さい人間に育つものだろうか。
ともあれ、
「だから、今回はオレがやる。あんたがもしもすまないって思うなら、今じゃない暇な時に練習してくれよ。成果が出たって思ったら、その時に頼むから」
ディパンにたどり着く前に、その成果が出るとも思わなかったけれど。
「はい」
けれど、そこまでは言わなかったなら、彼女がやっと顔を上げたから。焚き火を迂回して、クズ野菜一歩手前の大惨事にんじんとちゃんと柄の方を彼に向けたナイフをさし出したから。
ほんの少し、安心したように――それまではひたすらこわばっていた顔が、ほころんでいるように見えたから。
それが、なぜか彼の心をほっと軽くしたから。
「……そうだな。じゃあ、あんたはその間焚き火見ててくれ。炎が小さくなったなら、さっき拾ってあったこの薪を足せばいいから」
「分かりました」
「調子に乗って足しすぎるなよ」
「……気を付けます」
素直で融通のきかない、育ちがいいただの少女が真剣にうなずいて。ゾルデでのあの顔をした女とこの少女は本当にまるで重ならなくて。
受け取ったナイフとにんじんを手になんとなく見上げたなら、木々の間に細い細い月が見えて。
彼は軽く、息を吐き出した。
