善いか悪いかで区別するなら。これは確実に、よくないことだと。
理屈では分かっているのに。

―― ものの芽

父を喪い母を喪い、国を喪い心許すすべてを喪った。どんなに嫌がってもまぎれもない半身だった女神さえうしなってしまって、このまま立ち止まってはだめだと頭のどこかが叫んでいるのに、こころが光を見失っていて身体が動かなかった。
にぎやかだった旅の仲間たちも、一人以外みな自分のそばからいなくなってしまって。あさましいこころは、たった一人、残ったというよりはきっと逃げそびれただけの青年をなんとしても引き止めたがる。
こんなあさましさ、一時のことだと思う。生まれてからはじめて自意識を持ってからはじめて、広いひろい世界にたった一人放り出されて。その衝撃をやり過ごすほんの一時、誰かにそばにいてほしいだけなのだとせめて信じたい。
そうでなければ、ひどすぎる。
背負うべきすべてから見放された王女に束縛されなければならないなんて、束縛され続けなければならないなんて。そんなのなんて、ひどいことだろう。

……ひどい、と。
思うのに。

◇◆◇◆◇◆

「……ぁ、」
「どうした? まだ休んでろよ、交代の時間になったら起こすから」
黒くて赤くてどろどろと息苦しい、吐き気さえ呼ぶ夢を見ていた。目を醒ましてしまえば内容を何ひとつ思い出せない、ただ重く苦しい気持ちだけを引きずる夢を見た。
夢を見て、目を醒まして。
見開いた目に見たのは青年の心配そうな顔で。

ほう、と息を吐いたそれがずいぶん大げさになってしまってあわてたアリーシャだけれど、次の瞬間のルーファスの行動にさらに心臓がひっくり返りかける。思わず硬直してしまった彼女に気づかないように、ぽつりと声が降ってくる。
「――微熱、があるかな……まあ、無理ないっちゃーないよなあ」
――何の気なしにのびてきた大きな手が首筋に触れていた。
たったそれだけなのに天地がひっくり返るくらいにびっくりした自分がいて、あまりにびっくりした自分にさらに驚く。
いったい何なのだろう。
なぜこんなにも驚いているのだろう。
分からないのは彼の行動ではなくて自分のこころの動きで、
だから凍り付いてしまったのだけれど、どうやらアリーシャの硬直に気付いたルーファスはそうとは思わなかったらしい。難しい顔をしていたのがふときょとんとしたものになり、一気にぎょっとしたものへと変化していきなり三歩ほどをあとずさった。彼女の首筋にあった手も、その時もちろんはなれている。
「わ! 悪い!!」
おたおたと周囲を見渡すのは、今までかなりの大人数で行動してきたからこそのくせだろうか。なんだかつられてアリーシャもぐるりと周囲を見渡してしまったけれど、当然ながら、何もなかった。誰もいなかった。
もちろん、野宿だから獣避けに焚いた火はある。一晩分の薪もその一角に無造作に投げてあるし、風よけになるものもいくらか周囲にある。そういう場所を選んだ。けれどアリーシャにとって短くて長い今までの間に当然だったものは、何もない。誰もいない。
大柄な身体つきの割に細かく気遣ってくれる剣士も、当たり前のように確かな知識で旅を楽にする発案をする魔術師も、やさしく頼もしいと心底信じていた女剣士も、経験に裏打ちされた自信から鷹揚にかまえていた大剣を背負う男も。心のうちから、時にうるさく、時に厳しく時にやさしく、いつだってその存在を感じていた女神も。
誰もいない。分かっていたのに周囲を見渡すことでそれを確認してしまって、こころがなにか音を上げた。なにかがきしむような、あるいは断末魔の悲鳴にも似た悲痛な鳴き声のような、あるいは、
音がしたと思ったとほぼ同時、そして。
脳裏に横切るのは、美しかった街が黒鉛に崩れていく忘れたいのに目の前に焼きついて離れない、あの情景。

◇◆◇◆◇◆

「あ、あの! 本当に悪かった、ちょ、ちょっと見回りして気ィ落ち着けてくる、あんたは気にせずもう少し寝て、」
「……ルーファス!!」
――ダメ。
――ソレハ、ワタシノ手ニシテイイモノジャナイ。
彼がいなくなってしまう、と思ったときには重かったはずの身体が動いていた。いなくなるといってもほんの少しなのに、すぐに戻ってくることが前提だなんて分かっているのに。それなのに身体は動いて身体の動きに頭がついてこなくて、こころはやめろと制止の声を上げていた。
気付いたときには身体全部で彼にしがみついている自分がいて。
なんてはしたないことを、と今まで凍りついていた思考が間の抜けたことをはじき出して。

善いか悪いかで区別するなら。これは確実に、よくないことだと理屈では分かっているのに。
それなのに触れてしまったぬくもりは、めまいがするほどに心地良いものだった。
ひとのぬくもりに、自分はこんなにも飢えていたのだと。
悟った瞬間には、ああ、なんてあさましいことか。
浮かんだ涙で視界が埋まって、何も見えなくなっていた。

◇◆◇◆◇◆

父を母を国をすべてを――半身を。
あるべきと認識していた一切合切を一気に喪った、けれどこの時代、それは他にありえない話ではない。王族の一員は珍しいだろう、神と精神を共にするなんて他にきいたことはない。けれど喪失は、この時代、当たり前ではないにしろ誰の身にも降りかかる可能性のあることだった。
そう、理屈では分かっている。
分かっているから――自分だけが不幸の中にいるだのと、そんな風に思うわけにはいかない。自分の不幸を盾に哀れみを請いたいなんて、思うはずがない。
それなのに。
――ダッタラコレハ、ナンダ?

……ひどい、と。
思うのに。

「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「ちょ、おい……アリーシャ、」
「違うの、わたし……なんて、ひどい……。
あなたでなくても、きっとかまわないの。分かっているのに、あさまし、くて。王女、なのに……! ごめんなさい……!!」
離れようと思うのに、身体が離れようとしなかった。むしろなおさら強くしがみついた。
いくら力を込めてしがみついても夢のように消えない霞のようにぼやけない、肉体ある存在が。自分のものと違う鼓動が、生きているぬくもりが。
なぜこんなにも、こころを締め付けるのだろう。
苦しいのに、満たされるこのこころはなんだろう。
ぼろぼろとあふれる涙は。
どこから、くるのだろう。
「ごめんなさい、ルーファス……。わたし、わたし、」
――行カナイデ。
――一人ニシナイデ。
――ソバニイテ、ズットソバニ。
ああ、なんてなんて身勝手で利己的であさましいものばかりが、このこころにあふれているのだろう。

◇◆◇◆◇◆

……振り払われたらどうしよう。
思ったのは、勢いで吐いてしまった言葉を自分の耳が拾ったときだった。呆れられる、見捨てられる。一緒に行けるところまでと言ってくれたルーファスだけれど、別にそうしなければならない義理はない。付き合っていられるかと突き放されたらどうしようと思って、むしろそうなるべきだと思った。
彼は、人が好いから。災厄を招く自分から、逃げそびれただけだから。だから、だったら。この機会にどうか。
……どうか、逃げてください。
……わたしなんかに、捕らわれないで。
思ったのに、恐ろしさに凍りついたこころと裏腹に思考は冷静にそうはじき出したのに。
「――ああ、まあ……かまわない、よ」
――驚いたけどさ。
やがて耳に届いたのは苦笑まじりの、けれどあたたかい言葉だった。その意味を理解する前に強い力に包み込まれた。
しがみつくだけだった自分。
抱きしめ返してくれたひと。

新しい涙が、こぼれる。

――こころがどこから来るのか、この感情の名前が何なのか。
知りたかったけれど、それよりもこのぬくもりがもっとほしかった。
もっともっと、欲しくなった。

―― End ――
2008/05/13UP
ルーファス×アリーシャ
OFP
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ものの芽
[最終修正 - 2024/06/27-10:32]