大型の獣が低くうなるような風の音と、ばらばらと小石を叩きつけるような雨の音と。
そんなものが聞こえて、意識が浮上した。
浮上したことを自覚して、けれど寝る前からそれは聞こえていたはずで、つまりはそれまではそれなりに深く寝入っていたのだと。ぼんやりとした頭がそんなことを思って、覚醒しきらない意識がその中途半端な感覚をなんだか楽しんでいる。
どうせなら、この至福をもっと味わおうと。多分続けてそう思って、――その目論見は、思った瞬間けれどなんだか即座に。どこかへと拡散した。
腕の中に、何かが。
むしろ誰かを抱きかかえている自分に気がついて、まどろんでいた頭が一気に覚醒する。これはなんだと思う前に、これは誰だと思う前に。答えが分かってしまって、そうなると狼狽するしかない。
――何があった、これはいったい何ごとだ!?
目で確認してしまえばますますドツボにはまると思ったか、驚きに見開いていた目がそれをさがす前に勝手に閉じられた。視覚が遮断されたなら、当然のように他の感覚が働きを増す。味覚を抜いた残りの触角やら嗅覚やら聴覚やら。くらくらする理由を探ってはヤバいマズいと理性がよけいにあわてて、何か他のことを考えろと厳命が下る。
一も二もなく、従うことにする。
精霊の森に向かうと決めて、大陸を南に移動しているところだった。
世界が不安定になっていることを証明するように、どこかの森林遺跡周辺でもないのにやたら湧いて踊ってうねる黒雲が気になって、野宿ではないちゃんとした宿を探すことにした。目当てのものが確保できたのは、午後も早い時間だったけれど。荷物を部屋に落ち着けるころには、誰の目にもその判断が正しかったと証明された。
たかが空気の流れのはずの風が、ひとひとり軽々さらうのではないかという圧力を込めて好き勝手猛っている。
たかが水滴のはずの雨が、百年待たなくても石に穴をあけるのではないかという破壊力を込めて好き勝手叩きつけている。
地図に名もない小さな村の、民家の一室を改造したせまい部屋に無理に寝台を二つ押し込んだだけの。通常ならこれで金を取るのかと文句のひとつも言いたくなるような小さな部屋でも、あのまま何も考えずに先を急いでいたならどうなったかを思えば、これほどありがたいと思うこともそうそうないだろう。見栄えが悪くてすみませんねえとまっさきに謝られた、板を打ち付けた窓だって。そうしなかった場合の惨状を思えば、外がうかがい知れないことなんて大したことではない。
――出発はこの嵐がおさまってからだな。
――え、でもそれっていつになるか……。
――分からねえよ。けどさすがにこんなか移動って無理だろ。
――……、でも、
先を急がなくては、と。護るべき国を喪ったお姫さまの彼女は、国を護ろうとしていたころと同じくらい焦っている自覚があるのかないのか、あからさまに顔を曇らせていた。
それでも、いくらどんな顔を見せられても、ルーファスにはこの嵐の中を行くつもりはなかった。もちろん自分がずぶぬれになりたくないとかそういう気持ちもあるけれど。それより何より、先を急ごうとするあまり自分の身体の心配をすべて忘れ去っている、というかひょっとして最初から自分を気遣うことを知らないのかもしれない、なかなか困った性癖持ちのこのか弱い女の子を、こんな嵐の中に放り出すわけにはいかない。
――ルーファス、あの、
――だめだ。
――……明日、は。雨、やんでいるかしら……。
――ある程度風もおさまらないと、何飛んでくるか分からないし。
――これって、ひょっとして世界の崩壊の……。
――世界なんてこんなすぐに、簡単に壊れるもんじゃねえよ。
昼には遅すぎるし夜にはだいぶ早い変な時間だったけれど、ここのところまともな食事と縁がなかったのもあって、宿の食堂で田舎料理を詰め込むことにして。うっかり正体が知られるのではと心配したくなるような完璧なテーブルマナーを披露する彼女は、始終どうしても先を急ぎたがっていたけれど。
疲労が――多分本人には自覚のないそれが、思考を悪い方向へ引っ張っているのだろうと。そんな風に思いながら、とにかく彼女をいなして食事を終えて。部屋に戻れば特にすることは思いつかなかったし、大体、ルーファス本人も旅の疲れもろもろでとっとと休みたくなっていて。
同室とはいえ寝台は二つ。こちらも疲労からくる眠気にゆらゆら頭の揺れる彼女を片方の寝台に追いやって、自分はもうひとつの寝台に何の疑問も覚えることなくもぐりこんだはずで。そのまま即座に――珍しく深い眠りに落ちたはず、だった。
そのはずなのに。
長々思い返してみても、この事態につながる記憶は見当たらない。少し前の彼女とは違ってルーファスの場合はもうひとつの人格があったりはしないから、意識のないまま勝手に身体が起き上がってとかそういうことはないはずだ。絶対に。
……絶対にないと確信しつつも。けれど現実には。
明かりのない窓のふさがれた部屋の中、だから目を開いていたとしても視覚こそ危ういとはいえ。見なくても間違いようがない。思い返した今までが。自分で閉ざした視覚と、使いようがない味覚をのぞいた残りの三つの知覚が。腕の中にいる「だれか」が誰なのかを断定している。
くらくらとめまいを感じるのは、思考なのか理性なのか。なんだか不必要に腕に込めようとする力を、それはマズいだろと懸命に制しながら、微動だにしないように妙な制限を自分に課す。なんだか無意味に全身緊張しながら、絶対に絶対に目を開けてなるかとぎゅっと眉間に力を入れる。吸い込んだ息がなんだか甘いと思って、いやいやそれは気のせいだからとこころのなかで全身全力ツッコミを入れる。
見るからに細くて頼りない身体は、腕の中にあればいっそう脆いものに感じた。
触れられる、ぬくもりがある――だから確かにここにいるのに。本当にそうなのかと無闇に力を込めたくなるような、変な不安感にこころがざわついた。
あるべきものがある安堵感と、正体のわからない――というか正体を探ってはマズいような気がする焦燥感が、相反する二つの感覚が同時に浮かんでは打ち消してはまた浮かんで。
儚くてあたたかくてやわらかいそれを、けれど突き放すことだけは絶対にできないまま。
指一本動かさないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
悶々としたわけの分からない感覚だけが、じりじりと彼に降り積もっていく。
外は、嵐。
彼のこころの内もまた、ひどい嵐が吹き荒れる。
