そのままクリフは動かなかった。ネルも、この場から去るのは逃げることになるような気がして動けなかった。動けないのが居たたまれなくて、極力動揺を悟られまいとことさら冷たい探るような視線を落とす。青い目が苦笑する。
「フェイトが村を散策するとかで出て行ってな、暇なんだよ。今すぐ寝るほど疲れちゃいないし、あいつの真似してそこらをうろつきまわる気は起きねえし」
ふっと目が動いてつられてネルもその目線の先を見やって、件の青年が歩いていた年配の女性に話しかけているのを発見した。二つの視線に気づきもせずに、彼は疲れた顔の女性の愚痴に、真剣に相槌を打っているようだ。
「……悩みごとってな、別に解決策を期待しなくても、声にして吐き出すだけで楽になるもんだぜ」
青年が今度は若い女性の元に駆け寄ったのを見て、お、ナンパか? あいつもやるもんだなだとかなんとかつぶやいたクリフが、そのままの調子でふと続けた。言われた内容が飲み込めずに顔をしかめるネルを、見ていないのにその口元が笑っている。
「――まあ、それでも言いたくねえってんなら別にムキになって聞き出すつもりはねえけどよ」
「……」
純粋に心配されている、それが分かって変に新鮮で妙に嬉しい。どういう顔をすればいいのか、何を言えばいいのか分からなくて戸惑うネルを、青い目が再び見上げた。
「そうだな……年長者のアドバイスとしてはアレか。
自分が一番やりたいことをすりゃいい、最終的にはそれしかねえ。体面だとか他人の迷惑だとか、んなもん気にするな――おまえみたいな性格の奴の場合はな。いつだっていらん荷物背負い込んでるだろ? たまにゃワガママ言ったってバチは当たんねえよ」
まっすぐな包み込むような、強くてやわらかな視線。娘を見る父親のような、歳の離れた妹を見る兄のような、血族に向けるそんなやさしい目。
どくん。ネルの心臓が音を立てる。どくどくどく、音を立てて、それまで凍りついていた血が全身に巡りはじめる。音も色もなくしていた世界に、生命が吹き込まれる。
「――まるで、全部知ってるみたいな言い方するじゃないか」
掠れた声が、憎まれ口が口をついて出た。声に出した瞬間、素直ではないにもほどがある自分に頭を抱えたくなる。そんなネルを、クリフは仕方ないやつだなと言わんばかりの笑みで受け止めた。
――泣きたくなった。たとえ彼女が泣きついたところで、驚かずに受け止めてくれるだろうこの男の前で。この男にすがりつきたくなった。広い胸に顔を埋めて、声を上げて泣いてしまいたかった。そうしたら、この胸のもやもやが一気に晴れるような気がした。この胸のどろどろが一気に消えてなくなるような気がした。
そんなことできるはずもなくて、ネルは唇を噛む。
「……クレアと、正反対のこと言うんだね」
「事情を知らねえからな、今のはオレの勝手なアドバイスだ。まあ……あの姉ちゃんの言葉の方が、全部知ってる分説得力あるかもしんねえが。
何度も同じこと言われるより、新鮮でいいだろ?」
少年みたいな笑顔。ネルはふいと顔を逸らす。
「それとアレだな、「しなきゃいけないこと」蹴って「したいこと」選んでも――タマにだったらかまわねえと思うぜ。オレはな。……そっちの方が全部うまくいく場合もあるしな」
「いつだってやりたいことしか選ばない奴がそういう言葉口にしても、笑えるだけだよ」
自分を気遣ってくれるやさしい言葉に礼が言いたいのに、素直ではない口は素直ではない台詞を吐き出した。自分にふて腐れるネルを、やはりクリフが豪快に笑い飛ばす。
「違いねえ」
いつの間にか陽が傾きつつあった。西日に照らされて、ネルの顔が真っ赤に染まっている。
――そして、夜。
「……」
ネルはその部屋のドアを開けると、中には踏み込まずにただ黙って頭を下げた。無言のまま自分の勝手を詫びて、そしてこの国の民の未来を預かってくれないかと。
青髪の青年はぐっすり寝ているだろう。金髪の大男は――気づいていて寝たふりをしている、そんな気がする。
その気遣いは、今のネルにとてもありがたい。
きっと、自分はもうここへ戻って来ることはない。部下の二人ともども捕まって殺されて、これからしようとすることは全部無意味なのかもしれない。敵の罠に自分から飛び込んで、犬死にするだけだと思う。分かっている。
――でも、あんたがワガママを許してくれたから。あたしのワガママを、たまにだったら良いと言ってくれたから。だから、あたしはあたしのやりたいことをする。その結果自分の死を招いても、――だから、どうか許してほしい。あたしが死んだら、馬鹿なやつだと笑い飛ばしてほしい。もしあたしの死を悼んでくれるなら、どうか施術兵器を完成させて――この国に、あたしの生まれ育ったシーハーツに、平和を取り戻してくれないか。
ありったけの思いを込めてもう一度頭を下げると、ネルは静かに扉を閉めた。
月明かりに映える不毛な荒野を、ただ静かに影が走る。
