シーハーツの人間の目からは、だだっ広いだけで草も樹もまばらな荒野――グラナ丘陵を走るものがあった。黒の軽装に、たなびく首元の布。ひときわ鮮やかなのは短く揃えた赤い髪。
シーハーツの女王直下「クリムゾンブレイド」の片割れ、ネル・ゼルファー。
無駄のない動きで周囲をうろつく漆黒兵やらモンスターやらをやり過ごし、隙のない目で周囲をうかがいながら急ぐ。
目指すはこの丘陵を抜けた先、カルサア修練場。

―― 幹不過 [誰があんなやつのこと] 1

自分から囮にしておいて、敵に捕まったからとあわててそれを取り戻そうとする自分の間抜けさは自覚している。
ネルの、布に隠された口元が自嘲のかたちに歪む。
最初から分かっていたのに。飛竜を駆る疾風兵相手に、大して小回りの利かない馬車が逃げ切るなんて到底無理だということくらい。一度追いつかれてさえしまえば、抵抗の間もなく捕らえられてしまうことくらい。そうだ、その場ですぐさま殺されることなくこうして人質交換の材料にされるなんて、ずいぶん運が良い――それともとうに二人は殺されているのかもしれないけれど。
――分かっている。一度は見捨てておきながら、こうしてのこのこやってくる自分の馬鹿さ加減くらい。

崖の影に黒く砦が見えてきた。
小走りに急ぎながら、腰の短刀をはじめ装備を手早く確認する。誰もあてにできない、あてにするわけにはいかない。これはあくまでネルのわがままでしかない。
生命を失う覚悟はできている。時間はなかったけれど、自分がいなくなっても今後どうにかなるよう、できる限りの手配はすませた。――こころ残りといえば、任務途中で投げ出してきたグリーテンの技術者たちのこと。それは……きっとクレアがどうにかしてくれるだろう。
彼女のこころにぽっと小さな明かりを灯した、あの男の言葉にどこかすがりながら。
ネルは脚を踏み出した。

◇◆◇◆◇◆

物陰を移動しながら周囲を探って、ネルは息を吐く。一階部分に窓はない、裏口もない。古代には砦として使われていたわけだから当然なのかもしれない。
確認すらしなかったものの、ひとつしかない入口には漆黒兵が山ほど待ちかまえているに決まっている。そのための「餌」であり「罠」なのだから。分かりきっているため、アーリグリフ城の通風孔のように、入口以外で入り込める場所を探す。
結局。
隠密、つまりは身軽なのことを頼りに、鉤爪つきのロープで二階部分の窓から忍び込むことにした。柱の陰に隠れ、はやるこころを押さえて兵士をモンスターをやり過ごす。できる限り騒ぎにならないように。騒ぎになるのは仕方ないとしても、なるべくその時を遅らせるように。

たまにはわがままを言ってもいいと、あの男は言った。ずっと気を張っていたら肩がこるだろうと、言って少年みたいな笑顔を浮かべた。重役にある緊張と義務感責任感と生真面目な性格で、がんじがらめになっていたネルのこころをあっという間に解きほぐした。
いつだって誰にもかなわなかったことを、常に一緒にいたクレアでさえ気づいてもいないかもしれない、気づいていたとしてどうすることもできなかったことを、――実にあっさりとやってのけた。
きっと自覚すらしないで。

さすがに軍事機密だけあって詳細な見取り図までは手に入らなかったものの、カルサアに駐留しているアストールが、どういう手段でか用意した構造図。物陰に隠れたネルは、仕入れた情報を頭に思い浮かべる。
――タイネーブとファリンが捕らえられているのは。
三階の牢獄棟を当初は考えたけれど、アーリグリフの人間に、二人を長期にわたって生かしておくつもりなどないだろうと気がついた瞬間考え直した。やつらの目には、あの二人はあくまで「餌」としか映っていない。目当ての人間――グリーテンの技術者たちをおびき寄せることができたなら、それで二人は用済みだ。だからといって、もちろん生かして返すとも思えない。あれこれと面倒なことになる前にとっとと殺して、あとはモンスターなり飛竜なりの餌にするだけだろう。
……冷静に思い浮かべた、そんな自分の考えに吐き気がする。
そうさせないために今彼女はここにいる。危険を承知で自分の生命を半ば見捨てて、大切な部下たちを救い出すためにここにいる。

今現在、二人が生きている確証はない。例の脅迫文は彼女たちの死体を前にして書かれたのかもしれない。けれど、だからといって死んでいると決まったわけでもない。
だから。
死んでいないなら、生きているなら助け出したいと思った。他でもない自分の手で、助けるべきだと思った。死者に感謝されるよりも、生者に罵られた方がまだマシだと思った。
――これがわがままだということは分かっている。自分が甘いことは分かっている。クリムゾンブレイド、国内最高位の隠密として、この甘さは致命的だと分かっている。
分かっていても、一度は見捨てた彼女たちを、しかしネルは最後の最後で切り捨てることができない。

◇◆◇◆◇◆

青い顔で口元を押さえるネルは、近づく足音にあわてて気配を消した。がしゃんがしゃんといかにも重そうな鎧の、金属の触れ合う音。犬だか狼だかの荒い息遣い。その兵士たちが交わす会話から――彼女の侵入がばれたことを知った。
奥歯を噛みしめる。
早すぎる。……こちらは、まだあの二人の居場所すら掴めていないのに。

追い立てられながら二人を探し助け出し、逃げ出すことができるだろうか。あきらめて単身逃げ帰ることさえ、今から可能だろうか。それとも――、やはり任務を途中で放り出さずに、シランドまで技術者たちを送って行った方が良かっただろうか。大切な部下たちを見殺しにすることを、二人の死を確定させる方を選んだ方が良かっただろうか。
ラチもあかない思考を、頭を振って追い出す。
自分が一番したいと思ったことを、一番選びたい道を、わがままを承知で選んだ後に何を迷っている。
今さら後には引けない、引いても意味がない。事態は瞬間ごとにめまぐるしく変わっていく。絶望の闇の中、一番ほしい未来を何を犠牲にしても掴み取らなくてはならない。そのために何が必要かどう動くべきなのか、頭を限界まで回転させなくてはならない。後悔に囚われるのは、手段が何もなくなってからで十分だ。後に悔いるからこそ「後悔」なのだから。
――あの男なら、ネルにそういったことを言うと思う。あの鮮やかな青い目で、誰よりも強い目でまっすぐにネルを見て、きっとそう言うと思う。不安も絶望も吹き飛ばす、あの惚れ惚れするような太い笑顔を、
浮かべると思う。

―― Next ――
2004/07/24UP
憎しみあう5つのお題_so3クリフ×ネル_
OFP
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[最終修正 - 2024/06/14-14:46]