脳裏に焼きついた笑顔に後押しされるように、ネルは隠れていたそこから飛び出した。ひとりでうろつく漆黒兵を探すと、背後から――まるで抱きつくように腕を封じて、喉元、分厚い鎧の隙間に短刀を突きつけた。
一瞬呆気に取られた兵士を良いことに、手近な物陰へ引きずり込む。睦言でもささやくのに似た、低く錆を含んだ声でつぶやく。
「……騒ぐと殺す。あの二人はどこだい?」
「――き、きさ……っ」
「余計なことは口走らない方が良い。今あたしは気が短くなってるんだ。別にあんたじゃなくても、聞き出す相手なら山ほどいる」
言いながら短刀を握る手に力を込めた。刃が肉に触れて、ほんの少しそれをひねれば頚動脈が切れることを、多分兵士は本能で察した。
大人しくなった兵士に、ネルはもう一度口を開く。
「次はないよ。――シーハーツの二人を、どこに捕らえている?」
「……っ、四階……闘技、場に副団長の命で磔台を、用意した……っ。おれは、あとは知ら……」
「そこまでどの階段を使えばいい」
「い、一階の、エレベータと、あとは団長室からしか、あそこへは行けない……」
「分かった、礼を言うよ」
つぶやくと、短刀を持つのとは逆の手で懐に用意してあった麻酔針を打ち込んだ。びくんと跳ねた兵士は次の瞬間にはぐたりと脱力して、手を離したネルの足元にどさりと崩れ落ちる。
「闘技場……」
手持ちの武器をもう一度確認して、先ほど通った吹き抜け部分に駆け寄る。そこから侵入の時に使ったロープで一気に伝い下りる。
存在がばれてしまった以上、こそこそと隙をうかがう時間が惜しい。最短経路で二人の元へ急ぐ。
――おかしい、こころのどこかが騒いでいる。
グリーテンの技術者二人と知り合ってまだ数日しか経っていないのに。ほとんど生まれた時からのつき合いのクレアよりも、今は、金髪の大男の言葉の方が彼女の中で重い。あなたに死んでほしくないと泣きそうな笑顔でつぶやいたクレアよりも。何も事情を知らないまま、たまには好きに動いたらどうだと笑った男の方が。
ネルの中で、その言葉の方が重い。
どちらの言葉も決して間違ってはいない。大局的に見れば、国の重鎮の立場としてなら、クレアの方が確実に正しい。頭ではそう分かっているのに、クレアの言う通りこんなところで死ぬわけにはいかないと分かっているのに、それなのに――見殺しにしたくない、切り捨てたくないという思いが、たとえ二人を助けられたところで自己満足を得るだけなのに、逆らいきれない大きさ重さでもって彼女のこころを縛っている。
おかしい。
得体の知れない男の言葉ひとつで、こんなにもこころの揺れる自分は――おかしい。
すたん!
下をよく確認しなかったのが裏目に出て、二階から飛び降りてきたにしては小さな、しかし確かな着地音に、ちょうどその場を駆け抜けたところだった狼が身体ごと振り返った。よだれとその泡をばたばたとこぼしながら、鋭い牙をむき出しにして低く低く唸る。鞘をはらった短刀を手に、ネルはじりじりとエレベータ室の方へと体重を移動させる。
「ウォォオオオオォォォォォゥゥゥっ!!」
「影祓いっ!」
吠え声と共に地を蹴りかけた瞬間、ネルが放った衝撃波がその足元をすくい、狼がバランスを崩した。元より倒す気はない――倒そうと騒いだあげく兵を呼び寄せるつもりのないネルは、その隙を突いて駆け出す。
狼が体勢を取り戻し、背を向けるネルに追いすがろうとしたところで、
「影祓い!!」
「ギャウッっ!」
一瞬だけ振りかえったネルが再び衝撃波を放つ。
悲鳴を聞いただけでそれが命中したか確認する余裕のない彼女は、とにかく目の前の扉に手を伸ばした。次の部屋に滑り込んでこの扉を閉めさえすれば、単なる獣でしかない狼にはもうどうしようもないはずだ。
扉に手がかかってかすかに息を吐いた瞬間、しかしふくらはぎに激痛。
「……ぁッ!?」
追いすがってきた狼が噛みついたのだと、そう認識するより先に。そのままの勢いで扉をくぐったネルは、右脚に走る激痛と重みを、渾身の力を込めて蹴り退けた。
ばたんっ!
「……は、ぁ……っ……くっ」
荒い息を吐くたびに血が身体を巡るたびに、ずきずきとこめかみに響く激痛。反射的に道具袋を探った右手が癒しの果物に触れたところで、しかしネルは唇を噛み締めると何も取らずに袋から手を引き抜いて、脚を引きずりながら目の前の扉に向かった。
この癒しの果実は、きっと消耗しきっているだろう部下たちのものだ。自分のために用意したものではない。痛みには耐えれば良い。よほど死にかけたならともかく、ただ我慢するだけですむ怪我ならこれに手を出すべきではない。脚に噛みつかれたとはいえ、食い千切られたわけではない。まだ動く、動くことができる。
手をかけた扉の向こうにわだかまった気配。腰の短刀を引き抜いて、ネルは痛みを誤魔化すようにひとつ大きく息を吸った。
――これは、あたしのわがままだ。
瞬いた脳裏に浮かんだ、金髪の男なんか知らない。つらいならオレに頼れ、助けを求めろ――言葉にされなかった、しかし伝わってしまったそのやさしさなんか知らない。彼女の甘さを受け入れて包み込んでくれる男、そのやさしさに寄りかかりたいなんて思わない。――そんなことをする自分なんて、もう自分ではない。
――あたしは、ネル・ゼルファー。シーハーツのクリムゾンブレイド。あんなやつの言葉にすべてを左右されるような人間じゃない。あたしは、ひとりで立つことができる、歩くことができる。
息を吐いたなら脳髄に走る激痛、目に涙が浮いて視界が濁った。あわてて瞬いて短剣の柄を力いっぱい握り締める。ぎしぎしと鳴る奥歯は、ひょっとしたらそろそろ砕けるかもしれない。
そうしてネルがにらみつけた先には、名前の通りの漆黒の鎧に身を包んだ兵が三人。エレベータの前に立ちふさがっている。
――あんなやつ、知らない。この気持ちの正体を知ってはならない。
体勢を低くして床を蹴る。瞬間走った痛みに意識が削がれて、その隙をついて兵のひとりが振りかぶった刃がきらめいて、
それがひどく美しくて、
ずきん、脈打つたびに全身に届く、脚の――脚からの激痛が、もう本当に脚からきているのか分からない。落ちてきた刃は何とかはじいて、しかし彼女はそれで完璧にバランスを崩した。別の兵が得物を振り上げたのが見える。
――ああ、あたしはここで死ぬのか。
思った脳裏、痺れていく意識。
床に膝をつきかけたネルの耳が、遠くに二つの足音を聞いた。
