動作のすべてがひどく絵になる女性だと思った。ちょっとした何気ない動き、たとえ指先一つ動かすにしても人の目を集めてしまうような。そんな華を持った女性だと思った。
今まで出会ったことのない人種で、これからも出会うことのない人種だと思った。
どんな時でも強くて気高くて、誰の庇護も必要としない自立した女性だと。
はじめて彼女を見た瞬間、そう――思い込んだ。
聖王国シーハーツ王都シランド北部、シランド城。一行は明日、和平会談のためにシーハーツ女王を連れてモーゼルの古代遺跡に出発することになっている。
フェイトはぼんやりと城内を歩いていた。めまぐるしい事態の展開で無自覚に興奮しているのか、身体は疲れているのにどうにも寝付けなくて。適当に散歩でもして気分転換しようと、あてもなく城内をさまよっていた。
そうして謁見室を――シーハーツの人間が不用心なのか個人の部屋には個々が鍵をかければ良いと思っているのかそれだけ彼らが信用されているのか、ともあれ鍵がかかっていなかったので――通り抜けて、中庭に出てみる。
フェイトはそこで、テラスに肘をついて城下を見下ろす華奢な人影に気が付いた。
「…………」
ふと言葉を失う。
二つの月に照らされて、青い闇の中白く浮かび上がる細い背中。そよぐ風に青く長い髪が流れて、さらさらと優雅な動きで再び背に落ちて。――いっそ作りもののようにも見える、完璧な風景がそこにあった。たとえばそこだけ時間の流れが違うと言われても、思わず信じてしまいそうな、そんな完璧すぎていっそ幻想めいた世界がそこにあった。
青い世界を統べる女神が、その時不意に振り返る。
「フェイト……キミも眠れないの?」
「ああ、マリア……「も」?」
声を上げたことでようやく現実味を帯びたマリアに、フェイトは歩み寄りながら首をかしげた。それまで彼の動きを目で追っていたマリアが、言われた台詞にふいと横を向く。
あれ、と思ってから、それが図星を指されたための照れ隠しだということに気付いて、誰よりも何よりも強いと思っていた彼女にもそんな幼い一面があることに気付いて。――考えてみれば当然のそれに、フェイトはくすりと息を漏らした。
一度はそっぽを向いたマリアが、笑いを聞きつけたかむっとにらんでくる。
「……ええと、カンに障ったらごめん。マリアを馬鹿にしたわけじゃなくて……」
すっと細くなった目に、フェイトの焦りが増した。冷たい汗が頬を流れる。
「ごめん。笑ったりして悪かった」
言いわけは打ち切って、深々と頭を下げた。
そのまま頭を下げ続けて、何も言われないのでやがてこわごわ上げれば、マリアはつんとすねてそっぽを向いていた。その姿はさきほどの幻想の女神ではなくて、青い髪の十九歳の少女で。――なんだかマリアの新しい一面を発見したような気分になる。
「……何笑ってるのよ。気持ち悪いわね」
「ごめ……て、気持ち悪い!?」
あんまりといえばあんまりな言葉に思わず情けない顔になれば、それを見て今度はマリアがくすりと笑った。
「マリアは……眠れないのかい?」
ややあって笑いの衝動が消えてから。フェイトの方から訊ねてみる。
きっと強い色を浮かべた顔が、しかしふと引くとゆるく首を振って、少しだけ照れたような幼い顔になった。マリアのそうした表情の変化一つ一つが、やはりフェイトには妙に新鮮で。
「キミに虚勢を張っても仕方がないわね。
ええ。……色々あって精神が興奮しているのかしら。休まなくちゃと思うのに、眠くならなくて」
「――うん、きっと僕も同じだよ。散歩して気分転換でもすればマシかなと思って部屋を抜け出てきた。色々ぶらついているうちにここにたどり着いて、そうしたらマリアがいたんだ」
そこで言葉が途切れて、口元に笑みを浮かべたマリアがゆっくりとまた城下に顔を向ける。
整った顔から目元口元からゆっくりと笑みが消えていって、たったそれだけで等身大の少女が再び女神に変わってしまう。華奢な身体の輪郭が薄れていって月光の青い影が濃くなって、幻想の世界に一人だけ取り残されるような、フェイトはそんな不安に襲われる。
幻想にほどけそうな彼女を呼び止めたいのに声が出なくて、外見はまったく変わりなく、けれど彼の内心はどんどん焦りの渦に巻き込まれていく。
彼の目前にいる青い女神が、今にも消えてしまいそうで、
前触れもなく暖かいものに包まれて、マリアは目を見開いた。二、三度瞬いてから――彼女を抱きしめる青い髪の青年を見上げて……小さく息を呑む。
「……フェイト?」
上げた声は細く小さく、自分の耳ですら聞き取れない。どきどきと高鳴りはじめた心臓をせめて落ち着かせようと、それ以上は何もしようとしないフェイトにマリアは静かに目を伏せる。
ずっと会いたいと思っていた。会って、話をしてみたいと思っていた。父母が実の両親でないと知って、自分の素性に関してありとあらゆる手段で調べ上げたときから。フェイト・ラインゴッドの名前と存在を知ってから。
……いや、自分の素性のことは関係ないのかもしれない。この忌まわしい兵器としての特殊能力は関係なくて、ただ会いたいと、会ってみたいと、――会わなくてはならないと、そう思った。思い続けてきた。
学者として有名なロキシや、その妻で助手でかつて才媛の名をほしいままにしていたリョウコと違って、一般人でしかないフェイトに関する情報は大して集まらなかったけれど。それでも知りうる限りを知ろうと足掻いて、一つでも情報を得るたびに、まるで――恋焦がれるような気持ちは膨らんでいって。
そして。実際会ってみた彼は、想像していたよりもずっと幼く無知で頼りなく、けれどずっとずっと強くてまっすぐで優しかった。情報からの想像という薄っぺらな彼よりも、ずっと存在感と深みと厚みがあった。
だから。会う前に抱いていた気持ちは、今も変わらずマリアの中で育ちつつあって。
騒ぐ心臓はちっとも落ち着かない。夜風に冷えた身体を包む熱い体温が、耳元にかすかに触れる吐息がゆったりと打つ脈拍が、彼の腕がにおいが存在そのものが。マリアの心を、その奥底から震わせる。
ひどく心が騒ぐのに、けれど妙に落ち着く。今まで知ることのなかった不思議な感覚。
「……フェイト」
再び見上げた彼は、やはり先ほどと同じく不安を帯びたひどく心細い色を浮かべていた。まるで迷子のような捨て猫のような、そんな脆く頼りない空気を纏っていた。
――ずるい、と思う。
冷血だ冷酷だと陰口を叩かれていても、それを知っていながらすましていなしている彼女でも。クォークリーダーではないマリアはまだたった十九歳の少女でしかない。傷付いた存在を無視することや突き放すことができないわけではないけれど、そうすることに抵抗を覚えない「大人」とは違う。
ましてそれが――長年、会いたいと強く願っていた相手なら。
散々迷って迷う間もフェイトは離れなくて、そして意を決したマリアがフェイトの背に手を回した。抱擁に応えて、自分よりも大きな身体を、精一杯包み込む。そうした途端にきつくはないもののフェイトの腕に力がこもって、決して痛いわけではないけれど、息が苦しくて心臓が破裂しそうで。――どきどきしてくらくらしてざわざわする。
それなのに、なぜだろうひどく落ち着く。こんな感覚……知らない。
幻のようなマリアを現実に掴み止めたくて、ただそれだけで彼女を抱きしめたフェイトは。我に返った瞬間どうしようと途方に暮れた。触れた身体は見た目や想像よりもずっとずっと華奢で脆くて、そしてとても抱き心地が良い。けれどいくら心地良くてもマリアには迷惑だろうと、離れるタイミングを計っていたら、彼女の腕が背に回った。
夢でも見ているのかもしれない、と思う。
表情一つで雰囲気を変える、荘厳な女神にも等身大の少女にもなる彼女が。頼りなく情けない自分とはまったく逆に、たった一人大人の世界で自立して――むしろ周囲の大人を率いて歩くことすらできる彼女が。勝手に抱き付いた彼を振り払うどころか、むしろ抱き返してくれるなんて。誰よりも強い彼女が、こうして彼の腕の中で一人の少女としての姿を見せてくれるなんて。
こうして触れてみれば、確かに彼女は生きている。
抱き潰さないように苦しくないように、慎重に、けれど腕に力を込めながらフェイトはぼんやり思う。生きている。抱きしめた身体の確かな質感が、彼の鎖骨あたりをくすぐる彼女の吐息が、髪から香る花のようなにおいが、肌から伝わる脈拍が。彼女が生きていることを証明してくれる。
きっと幸せからだろう、頭がぼうっとなって思考がまとまらない。
――マリアがここにいてくれて良かった。
――マリアがこの世に生まれてきてくれて、こうして出会うことができて良かった。
――マリアの色々な面を知ることができて、僕は今嬉しい。
途切れ途切れの思考は、まとめるときっとそんな文になるのだと思う。思うけれどそれを言葉にできなくて、してはいけないような気がして、そんな自分が悔しくてフェイトは静かに息を吐く。
どれくらいそのままでいたのだろう。
「……フェイト?」
小さな声で名前を呼ばれて、腕の中の彼女を静かに見下ろした。幸せと喜びと安堵と、そういった感情を彼にもたらしている女神は、少しだけ困った目をして口元で微笑んでいる。
「何、マリア」
耳元でささやくように名前を呼べば、くすぐったそうに身をすくませる。はじめて見る彼女のそんな姿は、普段の彼女からは想像も付かないほどとても愛らしい。
「もう、眠れそう――」
……語尾が上がったのか下がったのか、果たしてそれは質問だったのか確認だったのか。
ただ、手を離してくれないか、と言われたのが分かって。名残惜しくて力を込めたがる腕から、目を伏せたフェイトはなんとかゆっくり力を抜いた。翠の視線が彼を見上げて、するりと猫のようなしなやかさで離れていく。
「お休み、フェイト」
「ああ……お休み、マリア。良い夢を」
青い髪が夜風になびいて、彼の目に残像を残して軽やかに遠ざかる。
強烈な寂寥感に襲われて、フェイトはただその場に立ち尽くす。
――ああ、これは恋なんだ、と。
彼の内から苦笑混じりの声がする。
フェイトの腕から逃れて、一度も振り返ることなくまっすぐに――早足で歩いて。中庭から謁見室に戻ったマリアは、閉じた扉に背を預けるとずるずるとその場に腰を落とした。
まだばくばくと心臓が高鳴っている。
恐怖ではなく、けれどかすかに震える腕で肩を抱く。先ほどまで青年の腕が触れていたあたりを、大切に包みこむように肩を抱く。嫌悪ではなく鳥肌の立っている腕を、そっと軽く撫でてみる。
触れられて抱きしめられたのが嬉しかった。弱っていた彼にすがり付かれたことが、嬉しかった。彼の気持ちがどうあれ、必要とされたことが――心底嬉しかった。
「ばか、ね……」
小さくつぶやく。自分の肩を抱いたまま、マリアは静かに目を伏せる。
![想死 [片想い]](01.png)
――これは恋なのだと、不意に悟った。
理由の分からない涙がひとすじ、彼女の頬を伝った。
