かたく閉じたドアを前に、フェイトは立ちすくんでいた。
放っておいてほしいと、彼女は言った。弱っている自分を見られたくないからと、いつもの凛とした声で言った。インターホン越しの電子声ではなく、扉一枚隔てたくぐもった肉声で確かにはっきりとそう言った。
どこまでも張り詰めて、そしてどこか脆く危うい声に涙の響きを感じたのは――フェイトの気のせいだったのかもしれない。
ただ、離れられなくて。フェイトはじっとその場に立ちすくんでいた。

―― 接吻 [キス]

反銀河連邦組織クォーク旗艦、ディプロ。FD界から帰ってきた一行は、現在エリクール二号星に向かって航行中。

プシュ。
夢うつつにドアの開閉音を聞いた気がして、なにより間近になった人の気配に、あてがわれた部屋のベッドで寝入っていたフェイトの意識がゆっくりと浮上する。照明を一番小さいところまで落とした部屋は、視界があまり利かない。ただ、気のせいではなく人影が――誰かがまだ半分寝入っている彼を確かに見下ろしていた。
フェイトは緩慢に瞬く。
闇に浮かぶ影はほっそりと細くまろく、女性のものだと知れた。少し動いた拍子に、さらりと流れた髪から優しいにおいが鼻孔に届いて――、
「まり、あ……?」
「ええ」
覚醒しきらない意識にもがきながらつぶやくと、人影は確かにいつもの声でうなずく。
「悪かったわね。……心配、してくれたみたいだから。大丈夫だって、言いに来たの」
かたい声に、どこか弱々しい声に。言われた言葉を脳内で何度も反芻したフェイトは、嘘だ、と思った。――思っただけのつもりだったのに、寝ぼけた頭はどうやら無自覚につぶやいていたらしい。
「……嘘じゃないわよ」
翠の目が不機嫌に細められたのが暗闇に見えたような気がする。懸命に「いつも通り」を演じる姿が、見えるような気がする。
それはひどく痛々しい。

「コンピュータ、ライトを……」
「点けないでいいわ。……点けないで、ほしいの。今ちょっとひどい顔しているから」
「――それってやっぱり、大丈夫じゃないじゃないか」
「大丈夫よ」
ようやく起きてきた頭を軽く振って、フェイトはとりあえずベッドに身体を起こした。軽く目元をこすりながら、まあ座ってよと自分の脇、ベッドをぽふぽふ叩く。
いつもならきっといらないわと拒否するだろうマリアは、しかし今日は素直にそこに腰を下ろした。軽い彼女の体重に、それでもマットレスが少し沈む。
「吹っ切れたの。だから――大丈夫よ」
声がどこかぶれていて、説得力がない。眉を寄せるフェイトにあわてたか、マリアがやや早口で続ける。
「確かにさっきまでふさぎ込んでいたけど、今はもう平気よ。やることがあるんだもの。いつまでも落ち込んでなんていられないわ」
「理屈はそうでも。感情が納得してないんだったら、それって大丈夫じゃないだろ」
唇を尖らせてフェイトが拗ねたように言えば、薄闇の向こうのマリアが膨れた。
「何度も言わせないでよ。もう平気なの。大丈夫よ、吹っ切れたんだから。感情に引きずられていつまでも落ち込むなんて、単なる時間の浪費だわ」
いかにも彼女らしい言葉に、フェイトは息を吐く。
……「いつもの彼女らしい」言葉ではあるけれど、今は強がっているのがバレバレだったから。
「……何よそのため息」
どんなに拗ねてみせても、声の震えが隠し切れていない。全然吹っ切れていない、大丈夫ではない。――そんな様を他人に見せるのが、そもそも「いつもの」マリアらしくない。
フェイトはまたひとつ息を吐く。

「で、そんな理由で夜這いかい? 僕は大歓迎だけどさ、マリア」
軽口を叩いて怒らせて、それをきっかけに話題を転換するつもりだった。潔癖なマリアはこういう冗談を好まない。いつだって瞬時に赤くなって噛み付いてくる。だからそれをきっかけにマリアの思考を別の方向に持っていこうと、気分転換をさせようと、フェイトはそのつもりだった。
確かにそのはずだったのに、
「夜這い……そうね、そうかもしれないわ」
あっさり肯定されて思わず動きを止める。そんなフェイトをマリアはまっすぐに見つめる。闇の中その視線に圧迫感を覚えて、フェイトの喉が一気に干上がる。
「ねえ。好きにしていい、私を好きにしてもいいともし言ったなら、……キミはどうする?」
「……、マリア……!?」
掠れた声で呼べば、虚ろな瞳、口元が笑みの形に歪んだ。顔だけ向いていたのが腰をひねって、上半身がフェイトに向いて。無防備に誘うように、揃っていた膝が崩れている。
視界が利かないはずなのに、なぜかフェイトにはそれがはっきりと見える。
「何も考えたくないの。……もしも私がそんな風に言ったなら、キミは、」
干上がった喉、真っ白に塗りつぶされた脳裏。ふらふらと吸い寄せられるように手を伸ばして、細い肩を掴む。そのまま――いつも見ていた魅惑的な唇に噛み付こうとして、確かに吐息が絡んで。ほしくてほしくてどうしようもなかったものが、今――、

「……らしくないよ、マリア。全然大丈夫じゃないじゃないか」
ひょっとして触れたのかもしれない、けれど触れなかったような気がする唇が離れて、フェイトがささやいた。間近い距離にある瞳が、その碧が――ひどく危機感を煽る危険な色に揺らめいている。揺らめきながら、肩はいまだ掴み止められてすぐそこにフェイトの顔があって、けれど彼はそれ以上距離を詰めてこない。
マリアはいつの間にか止めていた息を吐き出した。肺を空にして、苦しくなるくらい大きく空気を吸い込む。
「……どうして」
どうして止めるのだと、そんなつもりでつぶやいた。けれどそれは声にならなくて、フェイトがただ目を細める。
「マリアが本当にそれを望むなら、躊躇なんかしない。けど、……自覚がないのか? すごく怯えてる。今口先だけの強がりに乗ったなら、僕もマリアもきっと後悔する」
「でも!」
悲鳴のような声。思ったよりも大声になってしまって、マリアの身体が硬直する。肩を包んでいた手がゆっくりと移動して、そっと頬を包み込んだ。視界にはただ、真剣な碧。
「――マリアが、欲しいよ。僕はマリアが欲しい。他の何もいらない、何を引き換えにしてもいい。命を賭けたってかまわない。……マリアが好きだ」

◇◆◇◆◇◆

「……っ、」
突然の告白に、声が出ない。息ができない。
苦しくて情けなくて、泣きたくないのに涙が出る。先ほどまで――先ほど自室で気持ちを切り替えるために一度泣いてしまおうと思って、けれどいくら泣こうとしてもまるで出てこなかった涙が。なぜかここに来て一気にあふれた。
頬を包むフェイトの手を濡らして、こぼれ落ちていく。
――どうして。
自分が分からない。分からない自分がフェイトには分かっているようで、それが分からない。混乱しても取り乱しても、普段はあれほど頼りないくせに、どうして今はここまで落ち着いているのだろう。どうして、――マリアが今一番望むものを、望む通りに演じてくれるのだろう。
碧の瞳に揺らめく獰猛な光は、決して衰えてはいない。けれどそれはそれだけで、マリアを落ち着かせようと背を撫でる手も、こぼれ落ちる涙ごと頬を包み込む手も、まったくそれを感じさせない。どこまでも優しい。
「……ぁ……っ」
ぼろぼろととめどなく流れる涙に、静かに寄せられた唇。頬に触れる感触に背中が熱くなって、涙は相変わらず止まらなくて、いつの間にかフェイトの肩口にあったマリアの握りこぶしに力がこもる。
ただ声もなく、マリアは泣き続ける。

すべてが信じられなかった。
自分に備わった能力もその理由も、FD界の存在もFD人の存在も、自分たちが単なるデータだという事実も。バグ扱いされた自分たちのせいでこの世界に放たれたワクチンソフトも、そのエクスキューショナーたちを相手取って一歩も引かずにいられる自分たちの存在も。
すべてが信じられなかった。信じたくなかった。
混乱は、けれど続いていて。到底割り切ることなどできなくて。ちっとも計算通りにいかない自分の感情までもがプログラムされた結果だなんて、その矛盾が悔しくてやるせなくて、やはり信じられなかった。
一人では泣くことすらできない自分自身が、何よりも信じられなかった。

何もない空間にフェイトが手を伸ばして、それで自分が生まれたような気がする。彼の手が包んだところ、吐息が当たったところ、唇が舌が髪が触れたところ。そこに生命が宿って、そして自分が宿ったような、――そんな感じがする。
フェイトが生きているから、マリアが生きていられるような。そんな感じがする。
フェイトのためにマリアは生まれてきたのだと、そんな感じがする。

◇◆◇◆◇◆

気が付けばフェイトに抱きしめられていて。どれほど泣いたのか重い目蓋でゆっくりと瞬いたマリアは、いつの間にか彼の背に回していた手できゅっとシャツを握りしめた。身体に回った腕に力がこもって、さらにきつく抱きしめられた。
散々泣いたおかげで目の奥が重い。ひどく疲れている。けれど――胸に巣食っていた黒い何かが涙と一緒に流れ落ちたように、気分はやけにすっきりとしている。
「……ぃと、」
「ん?」
つぶやいた声は掠れていて自分でも聞き取りづらかったのに、応えてくれたフェイトが嬉しい。
「ありがとう……ごめんなさい」
「いいよ」
ゆっくりと背中を頭を撫でられて、子供扱いされているみたいなそれが、腹が立つよりむしろくすぐったい。くすくすと笑うマリアにフェイトも目を細くして、それを目にすればひたすら嬉しい。
だから。
「フェイト……私も、キミが好きよ」
だからそうささやいた。精一杯の感謝と、ずっと胸に抱いていながら表に出せなかった気持ちを。「特別」な彼に「特別な言葉」を送った。
一瞬きょとんとしたフェイトが次の瞬間には満面の笑みを浮かべて、身体に回った腕にさらにさらに力が入って、それが苦しくてけれど苦しい分嬉しくて。
――大好き。

接吻 [キス]

重なった唇は、涙の味がした。
幸せの味だと、――そう、思った。

―― End ――
2004/09/29執筆 2004/09/30UP
キス / 恋愛に関する15のお題_so3フェイト×マリア_
OFP
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接吻 [キス]
[最終修正 - 2024/06/14-15:10]